今回は会津若松藩や「中通り」の諸藩の「廻米」ルートについては、阿武隈川流域を除いては、詳しく調べることはできませんでしたが、内陸部であればあるほどその「廻米」業務は負担の大きいものであっただろうことが推察されました。会津若松藩に限ってみても、その「廻米」ルートは大きく4つもあったのであり、あるルートに何か不測の出来事が生じた時には、他のルートを最大限利用して年貢米を運んだものと思われる。海岸部に面した諸藩の場合は、「廻米」ルートは絞られていますが、それだけに、そのルート上において何か不測の出来事が生じた時には、その年貢米の運送に困難が生じたであろうことは容易に推測されます。「廻米」は、幕領(天領)においても諸藩においても、毎年定期的に行われるべき重要業務であり、大消費都市江戸の経済はその「廻米」が毎年安定的にもたらされることによって成り立っていたとも言うことができる。特に銚子を経由して入ってくる東北地方の年貢米は、大消費都市江戸にとってきわめて重要なものではなかったか。江戸城はもちろんのこと、江戸に集中する諸藩邸の経済も、基本的にはその地方からの「廻米」によって成り立っていました。 . . . 本文を読む