鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

富士市立博物館 展示会「講 ~人と人をつなぐもの~」 その3

2012-07-15 05:18:59 | Weblog
「大山講」の次に関心を持った講は「富士講」でした。これは幕末に富士登山をしたオールコック一行の関係から当時の登山ルートを調べていった時に、幕府がオールコック一行に設定したルートが、東海道から「村山口」を経て富士山頂へと至る「村山口登山道」であり、当時、多くの庶民が登山するルートであった、甲州道を利用して(大月宿から「富士道」へ入る)「吉田口」より登るルート(「吉田口登山道」)を意識的に設定しなかったことを知ったことにありました。外国人一行と「富士講」の集団との接触による混乱やそれによって生ずるであろう面倒を避けようとしたわけですが、それ以外にも、当時の為政者(武士)側の、「富士講」などの庶民の信仰上の活動やつながりに対する警戒の念や差別感を感じ取ることができました。大都市江戸およびその周辺の「富士講」の人々による富士登山は、きわめて活発であり、時期ともなると甲州道や富士道(大月~吉田口)、吉田口、吉田口登山道などは白装束の人々でごったがえしたのです。関東地方の「大山」へと至る道筋がすべて「大山道」であったように、関東地方の富士山へと至る道筋はすべて「富士道」だったのです。なぜ「富士講」による富士登山が行われたのか、なぜ「富士講」は爆発的に各地に増えていったのか、なぜ「富士講」は幕末の為政者に警戒されたのか、なぜ「富士講」は戦中戦後、急速に消滅していったのか(「富士講」だけでなく多くの「講」がそうであったのですが)、等々疑問はどんどんふくらんでいきました。 . . . 本文を読む