鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 軽井沢その2

2009-08-30 06:52:57 | Weblog
 追分宿郷土館を出ると、「馬頭観世音」と刻まれた大きな石碑が目に入りました。これは、追分宿で問屋を営んでいた人々によって、役馬の安全や供養を祈願して、寛政6年(1794年)に建立さたものだという。高さは3mもある。明治15年(1882年)の明治天皇の北陸御巡行の折に、道路改修により破棄されていたものが、郷土館開館にともなって改修・展示されることになったのだとのこと。200年以上のものとは思われないほど、鮮やかに文字が刻みこまれた石碑です。

 郷土館から中山道に出て、右手に清冽に流れているのが「御影用水」。この用水は佐久平をうるおす用水路であるらしい。

 同じく右手に、「天下泰平」と刻まれた大きな常夜燈が立っています。

 通り右上には、「追分宿 馬子歌道中」と記された提灯が並んでいます。

 昇進川に架かる昇進橋を渡ると、右手に「夢のはこ」と書かれた丸い電球の付いた木製の箱があり、何かと思って近付いて見ると、それは「青空文庫」という、自由に貸し借りが出来る本箱でした。「本の出し入れは自由」「借りる人は一冊に」「蔵書にされる方は代りの本を置いて下さい」「成人向けの雑誌及び写真集は置かないで下さい」などといったことが書かれています。

 こういう「青空文庫」は今まで見かけたことはなく、新鮮な驚きでした。この本箱は、この道筋で、これからも見掛けることになりました。

 やがて左手に、場違いのように立派な門が見えてきましたが、これが「堀辰雄文学記念館」の入口でした。

 この門は、実は追分宿本陣土屋市左衛門家の裏門で、もともとここにあったものではなく、移築したもの。これが表門ではなく裏門ということで、本陣の格式や規模が、このことからもうかがうことができます。

 「堀辰雄文学記念館」には、堀辰雄(1904~1953)が死ぬ直前まで住んだ家が残されていました。堀辰雄が室生犀星とともに初めて軽井沢にやってきたのは大正12年(1923年)の夏のこと(19歳の時)。この年の9月1日、辰雄は関東大震災により母志気を失っています。

 軽井沢に定住するのは昭和19年(1944年)から。亡くなったのは昭和28年(1953年)5月28日でした。

 庭の一角にある書庫は、その完成を楽しみにしていた辰雄が亡くなる直前に出来上がりました。

 この「堀辰雄文学記念館」には、さまざまな資料とともに、信濃追分駅(沓掛駅)周辺の地図が掲載されていました。それによると、「油屋」は信濃追分駅から中山道へと続く一本道の、中山道にぶつかる右手前角にありました。この中山道を左に進んでしばらくして、「分去れ(わかされ)」という、中山道から北国街道が分岐する地点があり、そこには常夜燈が立っていました(現在も立っている)。

 この旧「油屋」は、江戸時代後期に建設されたものでしたが昭和12年(1937年)に焼失。現在の「油屋旅館」は、中山道を隔てた反対側に建っています。この「油屋旅館」の右隣には浅間神社があり、その右隣に一里塚がありました。

 この「分去れ」の常夜燈のところで堀辰雄を写した写真も掲示されていました。

 このように見てくると、堀辰雄は、かつての「油屋」を見ていることになります。いや、見ているばかりかその2階に宿泊もしています。この「油屋」は、かつては脇本陣であり、またかつて小山太郎や兆民が馬車鉄道から下りて休憩した旅館でもありました。

 そして、どうもこの「油屋」前が、鉄道馬車の終点であり始発点であったらしいのです。

 堀辰雄には『大和路・信州路』という作品がある。昭和16年(1941年)、辰雄は姨捨~木曽薮原~野辺山などを旅しており、また昭和18年(1943年)には、妻多恵(昭和13年に結婚)とともに木曽路~奈良を旅しています。目を通してみたいと思いました。

 「堀辰雄文学記念館」を出て、追分宿本陣裏門を潜って、ふたたび中山道に出ました。

 立派な「御宿油屋」は右手にありました。中山道を隔ててこの左手に「油屋」があったはずです。

 右手に「旧本陣跡」、「つたや」、「浅間山泉洞寺」(曹洞宗)、そして「つがる屋」と続きます。この「つがる屋」は、堀辰雄文学記念館の地図に「桝形茶屋」とあったところであり、また「追分宿郷土館」に三分の一に縮小した模型があるところでもある。

 ここから「分去れ(わかされ)」の常夜燈などを一見してから、道を戻りました。

 旧中山道追分宿界隈は、かつての賑やかさは失われ、かつて人家があったところも空き地となっているところが多々ありましたが、カラッとした涼しい高原の空気が流れ、道端にはところどころ美しい花が咲いていました。碓氷峠へ向かって進む街道の宿場町左側は、おそらく木々が鬱蒼と繁り、また宿場町右側の裏手には小さな畑が広がっていたと思われました。

 この街道を、鉄道開通以前は、馬子が引く荷馬や荷馬車、馬車、人力車、牛車、そして商人や旅人たちが、ひっきりなしに往来していたのです。もちろん飯盛女たちが、それらの人々に声をかけ、それらの人々の袖を引いている光景も見られたはずです。また馬子たちの歌う朗々とした馬子歌も聞かれ、夜ともなると、旅籠からは飯盛女たちが歌う「追分節」が、三味線の音とともに聞こえてきたことでしょう。


 続く


○参考文献
・『碓氷峠の歴史物語』小林收(櫟)
・『信越本線120年 高崎~軽井沢』あかぎ出版編(あかぎ出版)
・『信州の廃線紀行』(郷土出版)


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