鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

中江兆民と山本松次郎のこと その1

2007-04-12 21:45:23 | Weblog
 この新町(現在興善町)の「済美館」に、慶応元年(1865年)のおそらく10月に、土佐からやってきて入学したのが中江兆民(篤助)。その済美館で、兆民は、教授平井義十郎、助教志筑龍三郎、カソリック神父プチジャンらからフランス語を学びました。

この済美館では、フランス語ばかりか、英語・ロシア語・ドイツ語・中国語などの諸国語と、世界史・地理・算術・物理・化学・天文・経済などが教授されていました。

済美館で、英語を担当した外国人は、これもプチジャンと同じく宣教師であったフルベッキ。

 英語を担当した日本人は、何礼之助(があやのすけ)や柴田大介ら。
 
 生徒は直参(幕臣)もいれば地役人もいる。兆民のように諸藩から派遣されたものもいる。薩摩・肥後・肥前・久留米など、長崎に蔵屋敷を置いている西南諸藩の出身の者が多く、中には蝦夷地の松前藩出身の者などもいたそうです。とりわけ多かったのは、薩摩藩出身の者だったと言います。

 寄宿生はおよそ100名。通学生はおよそ200名。合わせて300名前後の学生が、ここ済美館で学んでいました。

 フルベッキに学んでいた学生の顔触れは、「フルベッキと塾生たち」と題された有名な写真によってその一部を知ることが出来ます。『上野彦馬歴史写真集成』馬場章篇(渡辺出版)の第21図がそれ。フルベッキを中心に44名の青年が写っています。みな凛々(りり)しい表情をしているのがとても印象的です。

 解説には、「写場の様子から明治元年(1868年)頃の撮影と思われる」とあり、明治元年頃となれば、当然のことながらここには兆民は写っていません(兆民は、すでに江戸へ出ているので。また後述するように、兆民は佐賀藩士ではないので)。山本松次郎も、長崎出身の学生のため、ここには写っていません。

 この『上野彦馬歴史写真集成』には、倉持基さんの「『フルベッキと塾生たち』写真の一考察」という論文が掲載されており、そこには、篠田鉱造の『明治百話』(岩波文庫)の中の「外人の見た明治話」が紹介されています。その話し手は、フルベッキである可能性が極めて高い、と倉持さんは言われています。

 その話とは……。

 はア左様ですか、まアお掛けなさい、色々話しましょう、面白いことがあるでがんす。ここに二枚の写真があります(チョンマゲ大小の書生三十名ばかりと、他に五十名ほどの人々主人を取巻いて写る)、ハイ日本第一の写真師でしょう、上手でした。長崎の上野と申す写真師です。私は長崎に居りまして、この書生は皆長崎で教えたのです。一方は立山で、一方は新町。新町のは佐賀藩のお侍、立山のは幕府のお侍。どうも顔付に直ぐ見えます。幕府の方は余程進んで居りました。どうも幕府の侍の方は文明向の顔しております。

 この文中の「他に五十名ほどの人々主人を取巻いて写る」写真が、21図の「フルベッキと塾生たち」の写真。「一方は立山で、一方は新町。新町のは佐賀藩のお侍、立山のは幕府のお侍」とありますが、おそらく図21は立山のもの(佐賀藩が長崎に設けた致遠館の学生たちである可能性が大)で、P100に掲載されている図1が、新町のもの。しかしフルベッキが「新町のは佐賀藩のお侍」としているのは、疑問があります。

 図1のキャプションには「STUDENTS IN THE GOVERMENT SCHOOL AT NAGASAK」(長崎の公立学校の学生たち、公立学校=幕府が設立した学校)とあって、「これは済美館の学生とともに撮影された写真」であるからです。しかも、この写真には、山本松次郎(彼は佐賀藩出身ではなく、長崎出身です)が写っているからです。

 この図1の写真は『Verbeck of Japan』に掲載されているものですが、これと全く同じ写真が、長崎歴史文化博物館に残されていて、その「附記」には、次のような記述があるとのことです。

 慶應元年八月長崎府新町ニ済義館(済美館の誤り)ヲ設立シ後廣運館ト改称ス明治初年同館担任教師「フルベッキ」氏東京出発ノ時重ナル門人記念トシテ新大工町上野彦馬寫眞館ニ於テ撮影セリ

 フルベッキが東京へ向けて長崎を出立するのは、明治2年(1869年)2月11日。図1は、これ以前に、済美館の主立ったフルベッキの門人がフルベッキをまん中にして撮った写真ということになります。

 そしてこの「附記」には、3名を除いてほぼ全員の名前が書かれています(図3)。

 左上から順に右へ見ていくと(拡大鏡で)、かろうじてその名が読み取れるのは、
 
 徳見常人・池田寛治・玉和(?)貞久・名村泰蔵・矢野隆平・野間忠次郎・岡(?)辺順之助・藤岡・松岡良平・服部邦蔵(?)ら。

 中段左から、

 山本松次郎・松田雅典・フルベッキ・岡田好樹ら。

 下段左から、

 三浦亀五郎・高木碩二郎・松尾幸太郎・野田・林省三ら。

 写っている門人たちの総数は23名。

 彼らのほとんどは(兆民が彼らの名前を知っていたかどうかはともかく)、兆民と同時期に、長崎新町の「済美館」で学んでいた学生たちであると思われます(もちろん主立った連中であり、全員ではありません)。

 この「済美館」でフルベッキに学んでいた学生たち23名が写っている写真は、インターネットで「長崎文化ジャンクション 長崎文化百選」を検索すると、見ることが出来ます。この写真の中段左端にいるのが、山本松次郎です。

 ちなみに、佐賀藩の致遠館の学生44名とフルベッキが写っている写真は、やはりインターネットで「教育の原点を考える:「フルベッキ写真」に関する調査結果」を検索すると見ることが出来ますので、興味がおありの方は御覧になってみて下さい。

 この写真には、フルベッキの右隣に、岩倉具視の次男具定、左隣に岩倉具視の三男具経と思われる人物が写っています。倉持さんの前掲論文によると、岩倉具視は、佐賀藩の教育に感心し、明治元年(1868年)10月に二人の息子(具定・具経)を佐賀に送り、その後間もなくして、二人は致遠館で学ぶために長崎に赴いたということです。

 さて、山本松次郎ですが、この人物については、『幕末明治初期 フランス学の研究』田中貞夫(国書刊行会)に詳しい記述がなされています。第七章の「地方のフランス学者・山本松次郎」において、百十余ページにわたって触れられており、山本松次郎について詳しくまとめられた、おそらく唯一の文献ではないでしょうか。『波涛の果て 中江兆民の長崎』および『波涛の果て 中江兆民の維新』を書く上で大変参考になった研究書です。

 次回は、この田中貞夫さんの研究をもとにして、中江兆民(篤助)とともに済美館のフランス語の学生であった山本松次郎についてまとめてみようと思います。

 ちなみに、この本のP508に載っている「山本松次郎の肖像」(山本晴雄氏所蔵)写真は、フルベッキが済美館の生徒23名とともに上野彦馬写真館で撮影した記念写真の中の山本松次郎(の写真)と同一のものです。


○参考文献
・『長崎町人誌 第一巻 世変わり人情編』(長崎文献社)
・『上野彦馬歴史写真集成』馬場章編(渡辺出版)
・『幕末明治初期 フランス学の研究』田中貞夫(国書刊行会)

 インターネット
・長崎文化ジャンクション 長崎文化百選
・教育の原点を考える:「フルベッキ写真」に関する調査結果
・村上範致
・高島秋帆


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