鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.2月取材旅行「戸田~大宮~上尾」 その6

2012-02-26 06:35:29 | Weblog
 そのお堂の中には石仏が2対、板囲いの中に並んで置かれていました。

 その背後の案内板に、「火の玉不動尊・お女郎地蔵の由来」と墨書されていて、「高台橋のお女郎地蔵」と「火の玉不動」の「伝説と巷説」がびっしりと記されていました。

 左側の石仏が「火の玉不動尊」で、「寛政十二年」(1800年)に建立されたもの。そして右側の石仏が「お女郎地蔵」で、「天保六年」(1835年)に「施主粂三郎」によって建立されたもの。

 この「伝説と巷説」には、大宮宿の旅籠「柳屋」の女郎であった「千鳥」「都鳥」という美しい姉妹と、その姉の「千鳥」に思いを寄せる宿場の材木屋の若旦那、それに横恋慕する悪名高い盗賊神道徳次郎、そして高台橋付近にあった石の不動明王が登場します。

 ここに登場する神道徳次郎は、寛政元年(1789年)に、高台橋の傍らの刑場で処刑されたと伝えられている、と書き添えられてあり、「徳次郎」という盗賊が実在の人物であったとも思われてきます。

 「徳次郎」が実在の人物であり、寛政元年に処刑されたことが確かであるとすると、この「伝説と巷説」はそれ以前の出来事であったことになります。

 おそらく大宮宿の女郎であった一人の女性が、高台橋から身投げして、その死体が川から引き上げられるといった事件があり、その死にまつわる噂話が、一つの「伝説」としてまとまっていったものなのでしょう。

 「火の玉」が、身投げした女郎の浮かばれぬ霊とつながり、さらに橋のたもとにあった不動明王の石仏とつながったわけですが、高台橋の傍らに処刑場があったということは、不動明王の石仏は処刑された罪人の霊を鎮魂するためのものであったのかも知れない。

 無念の思いで非業の死をとげた女郎たちや、また罪人として処刑された人々の供養・鎮魂のために造られた石造物のうち、たまたま大事にされて残ったものが、この2体の石仏であるように思われました。

 この2体の石仏のあるお堂の背後には、「中山道歴史散歩コース 鴻沼(こうぬま・高沼)用水と高台(たかだい)橋」と記された新しい案内板がありました。

 それによると鴻沼用水というのは、8代将軍徳川吉宗が、享保13年(1728年)に見沼代用水西縁(みぬまだいようすいにしべり)を掘削した折りに掘られたもので、当地の西側に広がっている低地への灌漑用水にあてられたもの。

 かつてはV字型に掘られた深い用水路であり、そこに架けられた橋が高台橋でした。

 つまり中山道が鴻沼用水を渡るところに架けられていた橋が高台橋であったのです。

 ここを過ぎるとまもなく、右手に氷川参道の入口である大鳥居が見えてくるから、高台橋の傍らに処刑場があったということも考え合わせると、この辺りから大宮宿の町並みが始まっていたものと思われます。

 その案内板には案内マップも掲載されており、氷川参道か、一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居を潜って氷川神社へとまっすぐに続いていること、その途中、二の鳥居の前で「旧岩槻道」と交差していること、「図書館」や「博物館」が、その二の鳥居付近にあることなどを知りました。

 左手に「さいたま新都心」の高層ビル群を眺めて、あるくこと10分ほどで、右手に朱色の大鳥居(一の鳥居)が立つ氷川参道の入口に到着しました(11:30)。

 その入口の左手には、たしかに「武蔵國一宮」と刻まれたかなり年輪を経ているような石柱があり、それは、村尾嘉陵も崋山も、そして生田万も目にしたものであると思われました。

 「氷川参道歩こうMAP」によると、この氷川参道は、明治期には鬱蒼とした杉並木であったものが、環境の変化や第二次世界大戦中に燃料として伐採されたことなどにより、現在ではケヤキが中心になっているとのこと。

 「三の鳥居」の手前右側に「観音寺跡と氷川の森文化館」とありますが、これが村尾嘉陵の記すところの「観音院」であるでしょう。おそらく明治になってからの廃仏毀釈の動きの中で撤去されたものであると思われます。

 「二の鳥居」の手前を左右に走る道が「旧国道16号」であり、それが「大宮第三公園」の手前で「見沼代用水西縁」を渡り、またその通りに沿って「市立図書館」と「市立博物館」が並んでいることもわかります。

 「是より宮まで十八丁」という比較的新しい石標も立っていました。

 道を急ぐ崋山と生田万は、この黒々と杉や松の大木が繁る参道を右手方向に見て大宮宿を通過していきましたが、村尾嘉陵は、50数年前の幼少期の記憶を思い出して、この参道へと入り「一の鳥居」を潜っていきました。

 私は、この参道の上空からの映像を、かつてテレビの番組で見た記憶があり、こんな長い参道が大宮の街中に今でも残っているんだ、と印象深く思ったことがあり、往復4キロほどを歩いてまたここに戻ってくることにして、その長い参道へと足を踏み入れました。


 続く


○参考文献
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)
・『江戸近郊道しるべ』村尾嘉陵(東洋文庫/平凡社)


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