鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

小見川と黒部川 その3

2011-11-02 04:45:15 | Weblog
 翌朝、5:40少し前にビジネスホテルの玄関を出て、小見川探索のウォーキングに出発しました。手にはロビーで頂いた「川風薫る水郷の文化町 香取市小見川」を持っています。

 通り(駅前通り商店街)に出た向かいには、昨夕、店の御主人が串ものを焼いていた「うなぎ佃煮 しそ巻 すゞめ焼」の古い造りのお店がありますが、その店先はもちろん閉まっていました。

 「魚平食堂」も「魚平鮮魚」も、早朝とあってシャッターが閉められています。

 通り沿いの店は全部シャッターが閉まっており、通りを歩く人の姿も、車の往来もほとんどありません。

 まず確認したのはその通りからちょっと入った「中央小学校」。ここはパンフレットには「小見川藩陣屋跡」となっています。案内板らしきものは見当たりませんでした。

 黒部川に架かっている橋には「新田橋」とありました。この橋の中央から黒部川の上下流を眺めてみましたが、多くの川がそうであるようにコンクリートの護岸工事が施されていて、両岸には1艘の船が浮かんでいるばかりで、殺風景なものでした。この黒部川をかつては荷船などが往き来していたということですが、佐原の小野川のような情緒は見られません。石材屋さんや製材店の倉庫などが、かつての水運を偲ばせるものであるのかも知れない。

 少し戻って、「新田橋」の手前の川沿いの道へと右折しました。「中央小学校」の通用門がこの川沿いの通りから入ったところにあり、「香取市立小見川中央小学校」とありました。やはり案内板のようなものはなく、「小見川藩陣屋」がどういう規模のものであり、どういう構造をしていたかはわかりません。

 対岸には「ちば醤油」と看板が掛かった古い商家があり、その右に瓦葺きで2階部分が白壁、1階部分が板壁の蔵が隣接しています。垂直のコンクリートの護岸があって、川面には容易に下りることができないようになっていますが、かつてはこの岸辺で商品や原料などの積み下ろしが行われていたはずです。

 赤い欄干の橋は「仲橋」で、その橋は「妙剱神社」の参道へと続いていました。

 境内の南側に「中央小学校」の正門があり、「小見川藩陣屋」はこの「妙剱神社」と隣接していたらしいことがわかります。ただやはり案内板らしきものは見当たらず。藩の陣屋があったところだという重要地のわりには、なんともそっけない。

 「中央大橋」を左に見て「中央通り」(国道356号線)を渡り、次に左手に見える橋が「大橋」で、そこから右へと続く商店街が「新町通り商店街」でした。

 この通りの左側の並びに瓦葺き2階建ての立派な土蔵とそれに隣接(右側)する商店があって、看板には「谷屋」とあり、「創業嘉永元年」という文字も目立っています。

 土蔵前の竹格子塀のところには案内板が立っていました。

 それによると、この「谷屋土蔵」は「国登録有形文化財」となっており、「利根川の支流である黒部川の舟運で栄えた小見川町の代表的商家の土蔵」であるという。「旧銚子街道に南面して建てられている」ということから、たしかにこの通りが旧道すなわち「旧銚子街道」であったことがわかります。

 面白いのは、外見上は標準的な造りの土蔵であるが、洪水に備えて床高を上げるなどの工夫が見られるということ。黒部川や利根川の洪水に備えて、蔵に保管したものを水から守る工夫がされているというのです。

 その土蔵は明治時代初期に建造されたもので、店舗の創業は嘉永元年(1848年)。「染織処 谷屋」とあるように、「谷屋」は、「アカニシ貝」による「貝紫染色」を行う商店であったようで、その土蔵は、現在は「貝紫染色」による織物を展示する「夢紫美術館」として一般に公開されているということです。

 「新町通り商店街」となっていますが、幕末頃にはすでに旧道に沿って店が並んでいたことがわかります。

 戻って、黒部川に架かる「大橋」を渡り、その近くにあるという「松尾芭蕉の碑」と「名医佐藤尚中誕生地記念碑」、それに「初代松本幸四郎の墓」がある「善光寺」を探してみることにしました。


 続く


○参考文献
・『房総の街道繁盛記』山本鉱太郎(崙書房出版)


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