第三部のⅠは「土佐藩の海防政策」。
それによると、江戸時代に、異国船が土佐へ漂着ないし接近した件数は、前期(1601~1738頃)が5件、中期(1739~1852頃)が9件、後期(1853~1867頃)が9件、合わせて23件。
長い海岸線を持つ土佐藩において、海防が強化されたのは、19世紀に入ってからのことで、文化5年(1808年)に、ロシア船来航に備えて、甲浦(かんのうら)・浦戸・須崎・宿毛(すくも)など9ヶ所に大筒が配備されました。
この大筒を製造したのは、鉄炮鍛冶の伊藤丈助。
この伊藤丈助という名前は、「その2」で、安政元年(1854年)8月に鹿児島に派遣された土佐藩砲奉行池田歓之助一行の中に出てきました。
図引役が河田虎太(小龍)、そして鉄砲鍛冶が伊藤丈助でした。
文化5年と安政元年との間は46年ありますから、この伊藤丈助はおそらく同一人物ではありません。鉄砲鍛冶を世襲とし、名前も襲名したものと考えられます。親子か祖父孫の関係になるでしょうか。
この時配備された大筒は、二百目(め・匁〔もんめ〕・一目=3.75g)から三百目程度で大筒とは言えず、一貫目から四貫目という本格的なものは、天保3年(1832年)頃から配備されていったとのこと。
この大筒は和流炮で、海防強化の動きの高まりの中で、第十二代藩主山内豊資(とよすけ)の時代に、その和流炮術が復興し、旧来の稲富流などに加えて、荻野流・荻野流増補新流(天山流)などが新たに採用されることになりました。
近世炮術史に革新的な変化が生まれるのは、天保12年(1841年)5月の、高島秋帆による武州徳丸原(とくまるがはら)での西洋流(オランダ流)炮術による大演習の実施です。
アヘン戦争勃発による危機意識の高まりの中で、従来の和流炮術・大砲の不十分さが認識され、長崎出島のオランダ商館を通して導入された西洋砲術の優秀性が明らかになったのです。
幕府がこの西洋炮術(高島流)を公認(お墨付きとなった)ことにより、諸藩においても高島流が採用されるようになります。
徳丸原で演習が行われる前から、水戸・佐倉・浜松・田原・岩国といった諸藩は、藩士を高島秋帆に入門させ、徳丸原の演習を実見させているということですが、このうち、田原藩については、渡辺崋山が家老として海防強化を進めていたところとして、興味を引かれるところです。もっともこの年の2年前の天保10年(1839年)に、崋山はいわゆる「蛮社の獄」で逮捕されていますが。
この高島流への着目は、土佐藩においても同様でした。
この天保12年(1841年)、時の藩主山内豊資(とよすけ・第12代)は、高島流の修業を徳弘孝蔵に命じました。江戸に着いた孝蔵は、高島秋帆から皆伝(かいでん)された旗本下曽根金三郎に入門。第8番目の門人でした。
孝蔵は、およそ半年後に皆伝となり、土佐藩で初めての洋式炮術家になりました。
天保13年(1842年)の秋、下曽根金三郎のもとでの修業を終えて帰国した孝蔵は、藩主豊資から、仁井田浜に炮術稽古場を賜(たまわ)って、早速高島流の伝習を始めます。「その2」で、「仁井田浜に道場を開いたのがいつのことかはっきり」せず、おそらく「天保14年(1843年)以後のことになる」だろうと推測しましたが、それは間違いで、天保13年であることになります。
孝蔵は、まず息子の数之助(1832年生まれ・数えでⅠ1歳)に高島流を教え、さらに松本半次郎・徳弘市左衛門・徳弘大吉・徳弘庄助らの入門を許可し、伝習を開始します。天保13年の11月20日のことです。
「門弟は家老級武士(桐間・深尾・柴田など)から地下(じげ)浪人・民兵にいたる幅広い階層」におよび、「当時の土佐人の海防意識の高さと、新知見に対する純粋な好奇心」を示すものでした。
仁井田浜における演習において使用された銃砲は、モルチール砲・ホーイッスル砲・ゲベール銃などで、演習の指揮は、徳丸原での大演習と同じく、オランダ語の号令により行われました。
孝蔵の長男数之助は、1Ⅰ歳(数え)の時から父孝蔵に就いて西洋炮術の稽古を始め、長じて「御持筒役」として藩に出仕。24歳(数え)の時には足軽への炮術調練役となり、その後江戸に出て下曽根塾に入門。帰国後、大坂御警衛御用を命じられ、その時に緒方洪庵の適塾に入門してオランダ語を学んでいます。
この数之助(龍馬より3歳年上)から、龍馬が砲術やオランダ語を教わったことは「その1」で触れたところです。
嘉永6年(1853年)のペリー艦隊の来航は、土佐藩にも大きな衝撃を与えました。
時の藩主山内豊信(とよしげ・15代)は、嘉永6年に砲術師高村造酒丞(みきのじょう)を「御筒鋳立(いたて)御用」として大砲鋳造を命じ、また同年、城西石立村字(あざ)鍋焼に藩営の鋳砲工場を建設させて、田所左右次(そうじ)門下の馬場源吾を大筒奉行として大砲の鋳造を始めさせています。
また翌安政2年(1854年)に、薩摩藩へ田所左右次らを派遣し、また西内清蔵ら多くの炮術師・鍛冶を長崎に派遣しています。
文久2年(1862年)4月に開設された藩校文武館(中江兆民はここで蘭学や英学を学びます)においては、蕃書(洋書)や洋式炮術が教えられ、「この時、土佐藩は和流炮術から洋式炮術に統一」されました。
このカタログには、「第一部 鉄炮・石火矢の展開」として、長宗我部(ちょうそかべ)氏時代の鉄炮伝来やその伝来ルートについて、また「第二部 鉄炮・石火矢の基礎知識」などまだまだ興味深い記事があるのですが、当面の主題とは直接つながらないので、ここでは割愛します。
さて、坂本龍馬と西洋砲術との関わりですが、史料的には跡付けられませんが、その関わりは、かなり早い時期(嘉永6年〔1853年〕12月の佐久間象山塾の入門より以前)に遡(さかのぼ)るのではないかと、私は考えています。
その砲術への関心を通じて、西洋に関する知識も少しずつ蓄積していったように思えます。
特に、イギリスが清国を破ったアヘン戦争に関する情報は、仁井田(にいだ)にある藩御船蔵(おふなぐら)の御用商人や廻船業を営む人々(長崎・下関・大坂・江戸などとの情報ルートを持つ)の間には広まっていたと考えられます。
藩の御船蔵は、仁井田と種崎の間にあり、東西五町(約500メートル)・南北一町(約100メートル)余。
そこには吉田東洋が船奉行を勤めていたこともある船奉行所があり、また船に関わる作業場がありました。さらに、船奉行所で働く役人や船大工、鍛冶職人などが居住していました。
吉田東洋の、「通商貿易こそ富国強兵の基礎」とする考えや、技術者をオランダから呼び寄せ、西洋式の軍艦を建造させるべし、という当時においては破天荒な考えの生まれた背景としては、彼の仁井田における船奉行としての体験や長崎から入ってくる情報が大きく与(あずか)かっているのではないかと思われます。
この仁井田には、御船蔵の御用商人であり、「下田屋」という廻船業も営む川島猪三郎(いのさぶろう・1810~1854)が住んでいました。
この川島家と坂本家は、親密な関係があり、猪三郎は九州(長崎など)や長州から入って来る情報に通じていて、村の人たちからは「ヨーロッパ」と呼ばれていたといいます(『坂本龍馬─隠された肖像─』山田一郎〔新潮社〕より)。
山田一郎さんは、この海防にも強い関心を持っていた川島猪三郎が、「河田小龍以前に、少年時代の龍馬を啓発した人物ではなかろうか」と述べられています。
猪三郎は、弘化元年(1844年)製作の「万国地図」を所持していました。少年時代の龍馬は、仁井田の川島家において、この「万国地図」を大きな興奮をもって眺めたことがあるかも知れません。
また溝淵広之丞は、龍馬が初めて江戸へ向け高知城下を出立した際(嘉永6年〔1853年〕の3月)に、龍馬と同行した人物ですが、彼はすでに弘化年間(1844~1847)に藩の「御持筒役」として熟練した砲術の才を持っていた人でした。
この溝淵が、どんな因縁で龍馬とともに江戸へ向かうようになったかは不明ですが、歳は龍馬の7つ上であり、龍馬の従者といったようなものではなく、兄貴分ないしは保護者みたいな立場で同行したのではないでしょうか。
決して龍馬にとって見知らぬ者ではなく、以前から親しい付き合いのあった(おそらく龍馬の兄権平ととも)人物のように思われます。
この溝淵広之丞については、最近、面白い発見がありました。
坂本龍馬の研究者である菊地明さんが、今年4月に、『坂本龍馬の33年』(新人物往来社)を出しているのですが、その「海援隊士の『肖像写真』を解読する」(「龍馬と一緒に集合写真に写っているメンバーは誰か」)によると、龍馬を中心に置いた6人の海援隊士の写真の、右から2人目の人物は、従来考えられていた岡本健三郎ではなく、溝淵広之丞であるとのこと。ちなみに一番左(溝淵の左隣)は従来と同じく長岡謙吉(今井純正)。
この写真が撮られたのは、菊地さんによると、慶応3年(1867年)1月中旬から2月上旬までの間、長崎の上野彦馬の「写場」(写真屋)において。
私は、『波濤の果て 中江兆民の長崎』において、長崎に留学した篤助(中江兆民)が、宿所である鍛冶屋町の大根屋で知り合う人物として、この溝淵を設定し、篤助を龍馬や後藤に引き合わせたのはこの溝淵である(もちろんフィクションですが)としましたが、やや小太りで丸顔の、当時数えで40歳の溝淵の顔を知り、感動しました。
菊地さんは、「後藤象二郎と龍馬を引き合わせた溝淵が一緒に写っていることから、後藤と龍馬が手を握り合ったことを記念する写真だったのかもしれない」と推測されています。
さて、長々と書いてきましたが、以上で徳弘孝蔵を中心とする幕末土佐藩の砲術史については、説明を終えます。
それにしても、ネットによる検索はなんと便利なものか、と今回も痛感しました。
ネットがなければ、徳弘孝蔵に関する企画展のことも、またそのカタログ(図録)が福岡の古本屋にあることを知ることも、さらに早速にそれを購入して手に取って(今、私の目の前にある!)詳しくその内容を紹介することも出来なかったはず。
そういう点では、司馬遼太郎さんや吉村昭さんたちに較べると、今の私たちはどんなに情報収集や史料(資料)集めに便利な時代に生きていることか、と思わざるを得ません。
次回は、先に引き延ばしている長岡謙吉(今井純正)と萩原三圭(さんけい)についてまとめます。
では、また。
※お腹や咽喉(のど)に来る風邪がはやっているようです。
健康には十分にお気をつけ下さい。
鮎川俊介
○文中で記した以外の参考文献
・『吉田東洋』平尾道雄(吉川弘文館)
・『中江兆民』飛鳥井雅道(吉川弘文館)
それによると、江戸時代に、異国船が土佐へ漂着ないし接近した件数は、前期(1601~1738頃)が5件、中期(1739~1852頃)が9件、後期(1853~1867頃)が9件、合わせて23件。
長い海岸線を持つ土佐藩において、海防が強化されたのは、19世紀に入ってからのことで、文化5年(1808年)に、ロシア船来航に備えて、甲浦(かんのうら)・浦戸・須崎・宿毛(すくも)など9ヶ所に大筒が配備されました。
この大筒を製造したのは、鉄炮鍛冶の伊藤丈助。
この伊藤丈助という名前は、「その2」で、安政元年(1854年)8月に鹿児島に派遣された土佐藩砲奉行池田歓之助一行の中に出てきました。
図引役が河田虎太(小龍)、そして鉄砲鍛冶が伊藤丈助でした。
文化5年と安政元年との間は46年ありますから、この伊藤丈助はおそらく同一人物ではありません。鉄砲鍛冶を世襲とし、名前も襲名したものと考えられます。親子か祖父孫の関係になるでしょうか。
この時配備された大筒は、二百目(め・匁〔もんめ〕・一目=3.75g)から三百目程度で大筒とは言えず、一貫目から四貫目という本格的なものは、天保3年(1832年)頃から配備されていったとのこと。
この大筒は和流炮で、海防強化の動きの高まりの中で、第十二代藩主山内豊資(とよすけ)の時代に、その和流炮術が復興し、旧来の稲富流などに加えて、荻野流・荻野流増補新流(天山流)などが新たに採用されることになりました。
近世炮術史に革新的な変化が生まれるのは、天保12年(1841年)5月の、高島秋帆による武州徳丸原(とくまるがはら)での西洋流(オランダ流)炮術による大演習の実施です。
アヘン戦争勃発による危機意識の高まりの中で、従来の和流炮術・大砲の不十分さが認識され、長崎出島のオランダ商館を通して導入された西洋砲術の優秀性が明らかになったのです。
幕府がこの西洋炮術(高島流)を公認(お墨付きとなった)ことにより、諸藩においても高島流が採用されるようになります。
徳丸原で演習が行われる前から、水戸・佐倉・浜松・田原・岩国といった諸藩は、藩士を高島秋帆に入門させ、徳丸原の演習を実見させているということですが、このうち、田原藩については、渡辺崋山が家老として海防強化を進めていたところとして、興味を引かれるところです。もっともこの年の2年前の天保10年(1839年)に、崋山はいわゆる「蛮社の獄」で逮捕されていますが。
この高島流への着目は、土佐藩においても同様でした。
この天保12年(1841年)、時の藩主山内豊資(とよすけ・第12代)は、高島流の修業を徳弘孝蔵に命じました。江戸に着いた孝蔵は、高島秋帆から皆伝(かいでん)された旗本下曽根金三郎に入門。第8番目の門人でした。
孝蔵は、およそ半年後に皆伝となり、土佐藩で初めての洋式炮術家になりました。
天保13年(1842年)の秋、下曽根金三郎のもとでの修業を終えて帰国した孝蔵は、藩主豊資から、仁井田浜に炮術稽古場を賜(たまわ)って、早速高島流の伝習を始めます。「その2」で、「仁井田浜に道場を開いたのがいつのことかはっきり」せず、おそらく「天保14年(1843年)以後のことになる」だろうと推測しましたが、それは間違いで、天保13年であることになります。
孝蔵は、まず息子の数之助(1832年生まれ・数えでⅠ1歳)に高島流を教え、さらに松本半次郎・徳弘市左衛門・徳弘大吉・徳弘庄助らの入門を許可し、伝習を開始します。天保13年の11月20日のことです。
「門弟は家老級武士(桐間・深尾・柴田など)から地下(じげ)浪人・民兵にいたる幅広い階層」におよび、「当時の土佐人の海防意識の高さと、新知見に対する純粋な好奇心」を示すものでした。
仁井田浜における演習において使用された銃砲は、モルチール砲・ホーイッスル砲・ゲベール銃などで、演習の指揮は、徳丸原での大演習と同じく、オランダ語の号令により行われました。
孝蔵の長男数之助は、1Ⅰ歳(数え)の時から父孝蔵に就いて西洋炮術の稽古を始め、長じて「御持筒役」として藩に出仕。24歳(数え)の時には足軽への炮術調練役となり、その後江戸に出て下曽根塾に入門。帰国後、大坂御警衛御用を命じられ、その時に緒方洪庵の適塾に入門してオランダ語を学んでいます。
この数之助(龍馬より3歳年上)から、龍馬が砲術やオランダ語を教わったことは「その1」で触れたところです。
嘉永6年(1853年)のペリー艦隊の来航は、土佐藩にも大きな衝撃を与えました。
時の藩主山内豊信(とよしげ・15代)は、嘉永6年に砲術師高村造酒丞(みきのじょう)を「御筒鋳立(いたて)御用」として大砲鋳造を命じ、また同年、城西石立村字(あざ)鍋焼に藩営の鋳砲工場を建設させて、田所左右次(そうじ)門下の馬場源吾を大筒奉行として大砲の鋳造を始めさせています。
また翌安政2年(1854年)に、薩摩藩へ田所左右次らを派遣し、また西内清蔵ら多くの炮術師・鍛冶を長崎に派遣しています。
文久2年(1862年)4月に開設された藩校文武館(中江兆民はここで蘭学や英学を学びます)においては、蕃書(洋書)や洋式炮術が教えられ、「この時、土佐藩は和流炮術から洋式炮術に統一」されました。
このカタログには、「第一部 鉄炮・石火矢の展開」として、長宗我部(ちょうそかべ)氏時代の鉄炮伝来やその伝来ルートについて、また「第二部 鉄炮・石火矢の基礎知識」などまだまだ興味深い記事があるのですが、当面の主題とは直接つながらないので、ここでは割愛します。
さて、坂本龍馬と西洋砲術との関わりですが、史料的には跡付けられませんが、その関わりは、かなり早い時期(嘉永6年〔1853年〕12月の佐久間象山塾の入門より以前)に遡(さかのぼ)るのではないかと、私は考えています。
その砲術への関心を通じて、西洋に関する知識も少しずつ蓄積していったように思えます。
特に、イギリスが清国を破ったアヘン戦争に関する情報は、仁井田(にいだ)にある藩御船蔵(おふなぐら)の御用商人や廻船業を営む人々(長崎・下関・大坂・江戸などとの情報ルートを持つ)の間には広まっていたと考えられます。
藩の御船蔵は、仁井田と種崎の間にあり、東西五町(約500メートル)・南北一町(約100メートル)余。
そこには吉田東洋が船奉行を勤めていたこともある船奉行所があり、また船に関わる作業場がありました。さらに、船奉行所で働く役人や船大工、鍛冶職人などが居住していました。
吉田東洋の、「通商貿易こそ富国強兵の基礎」とする考えや、技術者をオランダから呼び寄せ、西洋式の軍艦を建造させるべし、という当時においては破天荒な考えの生まれた背景としては、彼の仁井田における船奉行としての体験や長崎から入ってくる情報が大きく与(あずか)かっているのではないかと思われます。
この仁井田には、御船蔵の御用商人であり、「下田屋」という廻船業も営む川島猪三郎(いのさぶろう・1810~1854)が住んでいました。
この川島家と坂本家は、親密な関係があり、猪三郎は九州(長崎など)や長州から入って来る情報に通じていて、村の人たちからは「ヨーロッパ」と呼ばれていたといいます(『坂本龍馬─隠された肖像─』山田一郎〔新潮社〕より)。
山田一郎さんは、この海防にも強い関心を持っていた川島猪三郎が、「河田小龍以前に、少年時代の龍馬を啓発した人物ではなかろうか」と述べられています。
猪三郎は、弘化元年(1844年)製作の「万国地図」を所持していました。少年時代の龍馬は、仁井田の川島家において、この「万国地図」を大きな興奮をもって眺めたことがあるかも知れません。
また溝淵広之丞は、龍馬が初めて江戸へ向け高知城下を出立した際(嘉永6年〔1853年〕の3月)に、龍馬と同行した人物ですが、彼はすでに弘化年間(1844~1847)に藩の「御持筒役」として熟練した砲術の才を持っていた人でした。
この溝淵が、どんな因縁で龍馬とともに江戸へ向かうようになったかは不明ですが、歳は龍馬の7つ上であり、龍馬の従者といったようなものではなく、兄貴分ないしは保護者みたいな立場で同行したのではないでしょうか。
決して龍馬にとって見知らぬ者ではなく、以前から親しい付き合いのあった(おそらく龍馬の兄権平ととも)人物のように思われます。
この溝淵広之丞については、最近、面白い発見がありました。
坂本龍馬の研究者である菊地明さんが、今年4月に、『坂本龍馬の33年』(新人物往来社)を出しているのですが、その「海援隊士の『肖像写真』を解読する」(「龍馬と一緒に集合写真に写っているメンバーは誰か」)によると、龍馬を中心に置いた6人の海援隊士の写真の、右から2人目の人物は、従来考えられていた岡本健三郎ではなく、溝淵広之丞であるとのこと。ちなみに一番左(溝淵の左隣)は従来と同じく長岡謙吉(今井純正)。
この写真が撮られたのは、菊地さんによると、慶応3年(1867年)1月中旬から2月上旬までの間、長崎の上野彦馬の「写場」(写真屋)において。
私は、『波濤の果て 中江兆民の長崎』において、長崎に留学した篤助(中江兆民)が、宿所である鍛冶屋町の大根屋で知り合う人物として、この溝淵を設定し、篤助を龍馬や後藤に引き合わせたのはこの溝淵である(もちろんフィクションですが)としましたが、やや小太りで丸顔の、当時数えで40歳の溝淵の顔を知り、感動しました。
菊地さんは、「後藤象二郎と龍馬を引き合わせた溝淵が一緒に写っていることから、後藤と龍馬が手を握り合ったことを記念する写真だったのかもしれない」と推測されています。
さて、長々と書いてきましたが、以上で徳弘孝蔵を中心とする幕末土佐藩の砲術史については、説明を終えます。
それにしても、ネットによる検索はなんと便利なものか、と今回も痛感しました。
ネットがなければ、徳弘孝蔵に関する企画展のことも、またそのカタログ(図録)が福岡の古本屋にあることを知ることも、さらに早速にそれを購入して手に取って(今、私の目の前にある!)詳しくその内容を紹介することも出来なかったはず。
そういう点では、司馬遼太郎さんや吉村昭さんたちに較べると、今の私たちはどんなに情報収集や史料(資料)集めに便利な時代に生きていることか、と思わざるを得ません。
次回は、先に引き延ばしている長岡謙吉(今井純正)と萩原三圭(さんけい)についてまとめます。
では、また。
※お腹や咽喉(のど)に来る風邪がはやっているようです。
健康には十分にお気をつけ下さい。
鮎川俊介
○文中で記した以外の参考文献
・『吉田東洋』平尾道雄(吉川弘文館)
・『中江兆民』飛鳥井雅道(吉川弘文館)
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