鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.6月取材旅行「海老名~河原口~厚木~愛甲石田」 その17

2014-07-25 05:11:47 | Weblog
斎藤鐘助(撫松)が撰んだ「厚木六勝」の題はみな五文字でしたが、崋山はそれは雅(みやび)ではないとして四文字に変えました。では鐘助が考えた五文字の「厚木六勝」はどういうものであったかというと、「雨降山晴雪」・「仮屋戸喚渡」・「相模川清流」・「菅公祠驟雨」・「熊野森暁鴉」・「桐辺堤賞月」というものでした。このうち「桐辺堤」からは、他の五勝をすべて見張るかすことができたことが、崋山の日記からわかります。私は崋山が六勝それぞれの地に赴いて、それをスケッチしていたと思い込んでいましたが、日記をしっかり読んで見ると、崋山が唐沢蘭斎と斎藤鐘助に誘われて赴いたところは、途中「熊野森」に立ち寄っているものの、実は「桐辺堤」であり、崋山はそこでスケッチした後に「万年屋」に戻っています。崋山の厚木村における行動範囲は決して広いものではなく、厚木宿からその南方一里ほどにあった桐辺堤までの範囲(大山街道沿い)であったことがわかります。崋山が厚木宿(「万年屋」)を出立したのは、駿河屋彦八らが訪れた9月24日(陰暦)の午後(昼食後)のことでした。崋山と梧庵は、もう大山街道を大山方向へと進むことはなく、「厚木の渡し」で相模川を渡って(なぜか「金田の渡し」で中津川を渡っています)、河原口村で右折して東海道藤沢宿へと向かう道を歩んで行きました。崋山と梧庵が厚木宿「万年屋」に滞在したのは、9月22日の夕方から24日のお昼頃までのことで、2泊3日の短い滞留であったことになります。 . . . 本文を読む