鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2014.6月取材旅行「海老名~河原口~厚木~愛甲石田」 その18

2014-07-28 05:30:43 | Weblog
2泊3日のの厚木宿滞在で、崋山の記憶に残ったのは、水上交通・陸上交通の要衝地としてのその繁栄や賑わいと、それにも関わらずその地を領する烏山藩の政治に対する不満や反発が人々の間に鬱積している現実であったでしょう。その不満や反発を崋山に語ったのは、23日に斎藤鐘助とともに崋山を桐辺堤へと案内した厚木宿の医者唐沢蘭斎であり、そして24日に崋山の人物を確かめにやってきた「厚木ノ侠客」駿河屋彦八でした。彦八は「今の殿様は民を慈しむ心は全くなく、隙をうかがって厳しく御用金を取り立てようとするばかり。いっそ殿様を取り替えた方がいいと思っている」と言い、蘭斎も「厚木は天領(幕府領)になれば上々、旗本領になってもその方がましだ」と言う。崋山はその二人の言を聞いて「愕然」としています。崋山は彦八に対して、儒教的な道徳観念からその考え方の非をとなえていますが、現実の長い生活体験から出てきている彼らの不満や反発を、通り一遍の言論で封じ込めることがとうてい無理であることは十分に感じたはずです。このような領民の不満や反発の鬱積が、自分の属する田原藩の領内で生じたらどうするか。いや、生じさせないようにするためにはどうすればよいか。さらに、このような不満や反発が各地に広がっているとしたら(つまりもし全国的なものになっているとしたら)、為政者はそれにどう対処すればよいのか。崋山はそのようなことにまで思いを致したかも知れない。庶民の赤裸々な不満・反発の吐露に接して、崋山はあるべき政治のあり方を模索していきます。その一つの契機となったのが厚木宿での唐沢蘭斎や駿河屋彦八らとの出会いであったでしょう。 . . . 本文を読む