鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.11月取材旅行「桐生~馬打峠~足利」 その11

2012-12-04 05:33:04 | Weblog
「金井繁之丞」をネットで調べたところ、京都の紋工小坂半兵衛は、天明6年(1786年)より5年間、繁之丞の家に住み、その間に桐生で紋織技術を教えたという。繁之丞は、この小坂半兵衛より紋織の技術を学び、やがて「足利紋織の祖」と言われるまでの功績を積み上げていきました。天保2年(1831年)に崋山が桐生にやってきた時には、すでに2年前に金井繁之丞は76歳で亡くなっていますが、その頃桐生で活躍していた若手紋工の一人が石田常蔵(九野・1806~1861)でした。すでに見てきたように、桐生地方に「高機」や「紋織」を伝えたのは京都西陣の織物師中村弥兵衛であり、また桐生や足利で紋織の技術を教えたのも京都の紋工小坂半兵衛であったように、京都あるいは京都西陣からはるばる北関東の両毛地方にやってきて、京都西陣の先進技術を伝えたり、教えたりする人たち(職人)が相当数いたのではないかと思われてきます。桐生の岩瀬吉兵衛が「水力八丁車」を完成させたのが天明3年(1783年)であることを考えると、絹織物を作るための撚糸生産は、その「水力八丁車」という水車を動力とする八丁撚糸機の普及によって大幅な大量化が可能となり、文化文政期から天保期にかけて桐生や足利は「近世織物史上黄金時代」を迎えます。多くの絹買継商(岩本茂兵衛もその一人)の活躍やその財力は、その上に成り立っていたものでした。崋山はちょうどその「近世織物史上黄金時代」の真っただ中にあった桐生や足利、あるいは大間々などを訪れたことになります。 . . . 本文を読む