兆民一行の乗る「出雲丸」が浦戸湾に入り、東孕(ひがしはらみ)と西孕(にしはらみ)の間あたりに到着したのは翌17日。午後のことであったと思われます。この「出雲丸」から小船を雇って、一行4人が向かった先は潮江新田の伯爵板垣退助の屋敷でした。板垣邸では酒を勧められますが、兆民は新聞記事を書かなければと言って断わり、すぐに板垣邸を辞しているようです。そして「本の士族町」にある高屋長祥という者の家に至り、そこではビールを数瓶飲んでいます。ビールはアルコールが少ないと聞いているからだと兆民は言い訳をしていますが、こちらの方が気楽に飲むことができたのでしょう。旧知の村越直光という者が高屋宅に着いた兆民一行を訪ねてきます。明治15年(1882年)、兆民は出版社設立の同志を得るために高知から九州へと赴いていますが、村越はその時兆民に同行した一人でした。兆民はこの村越直光を「真の男子なり」として、その人物を賞賛しています。兆民はこの旧高知城下の武家屋敷が残る士族町の一角、高屋邸に泊まっていたようです。18日に兆民は、『東雲新聞社』に送るべき「土佐紀游」を執筆していますが、それは高屋長祥の屋敷においてであったからです。 . . . 本文を読む