鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 最終日その1

2009-09-23 06:20:00 | Weblog
兆民の妻は弥子(いよこ)という。兆民と弥子との間には二人の子どもが産まれました。長女が千美(ちび)で明治20年(1887年)3月4日生まれ。長男が丑吉(うしきち)で明治22年(1889年)8月14日生まれ。明治20年11月、兆民が小山久之助と信州へ向かった時は、千美はまだ赤ん坊で、丑吉はまだ生まれていない。明治25年1月末、ふたたび兆民が信州に向かった時には、千美は4歳と10ヶ月。丑吉は2歳と5ヶ月。二人とも可愛い盛りでした。丑吉の誕生日は戸籍の上では9月14日で、実際の誕生日よりちょうど1ヶ月遅れ。その前日9月13日に松沢ちの(弥子)が中江家に入籍しています。ということはそれまで弥子は、兆民の内縁の妻であったということになります。松永昌三さんの『評伝中江兆民』によれば、千美の誕生日から推測して、兆民と松沢ちの(弥子)とは、遅くとも明治19年(1886年)年前半には内縁の間柄に入っていた、という。松永さんによれば、弥子は長野県東筑摩郡洗馬村(現塩尻市洗馬)の出身で、安政3年(1856年)8月10日生まれ。兆民より9歳年下。長女千美を産んだ時は、したがって31歳ということになり、当時としてはけして若くはない年齢での初産ということになる。戸籍では洗馬村の平民松沢吉宝の姪で、母はワイ。ちの(弥子)の経歴はよくわかっていない。長女の千美によれば、3歳の頃に江戸の御家人の家に養女にやられ、長じて越後の物持ちのところへ嫁いだものの、間もなく離婚。その後、武士上がりの人の仲介で兆民と結婚した、らしい。ということは、兆民との結婚は再婚ということになる。再婚といえば、兆民も同様で、兆民は明治11年(1878年)に高知県士族松田庄五郎の娘鹿と婚姻、入籍。しかし鹿は入籍してからわずか1年5ヶ月後に親里に復籍している、とのこと。その最初の結婚生活がどういうものであったかはまったくわからない。興味深いのは、弥子は、明治10年代後半から20年代初頭にかけて、あの本郷菊坂!(菊坂下三十九番地)で「松沢ちの」として宿屋を営業していたらしく、兆民はその宿屋にしばしば滞在していたことがあるということ。兆民はあの菊坂界隈を歩いているのです。渋江保の証言によれば、弥子は芝兼房町の「金虎館」という宿屋の女主人をしていたこともあるようだ。それが明治17、8年頃で、どうも兆民はそこで弥子と知り合ったようです。 . . . 本文を読む