鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.5月「登戸そして二子・溝口」取材旅行 その2

2009-05-21 05:45:17 | Weblog
私の妻の母の実家は、相模原市津久井町のNというところにあるKという家で、かつては茅葺き屋根の農家でした。義母の幼い頃には囲炉裏が二つありました。一つは土間の近くで、そのまわりで作業をするところ。一つは食事などをする一家団欒の場所で、お客があればそこでもてなしました。家のまわりにはモチノキが植えてありました。なぜモチノキかというと、火事が周囲で発生した時にその延焼を食い止める効果があったという。水分の豊かな肉厚の葉っぱが、火を食い止める働きをしたというのです。いちはつが棟に植えられた理由の一つは、それが火災を防ぐという俗信があったから、というのがありましたが、火災はやはりずっと昔からもっとも怖れられていた災厄の一つであったのです。茅葺き屋根は、火災が発生した場合には、それが乾燥していればいるほど燃えやすい。その義母に、日本民家園のことやいちはつの植えてある茅葺き屋根の話をしたところ、ひい爺さんやひい婆さんの頃には、屋根にいちはつが植えられてあったようだとの話が出て来ました。このあたりでは「いちはつ」とは呼ばないで「いっぱつ」と呼んだらしい。しかも現在の家(妻の実家)の川べりの畑地にはその「いっぱつ」の花が毎年咲き、今年もしばらく前まで咲いていたという。ベアトの写真で、いちはつが近くの宮ヶ瀬(みやがせ)の茅葺き民家の屋根にも植えられていたことを確認しましたが、であるなら、ここにおいてもかつての茅葺き屋根の民家にいちはつが植えられていた可能性は十分にあるわけです。義母とそういった話をした翌日、仕事から帰宅してみると、なんと仏壇の脇の花瓶に青紫色のいちはつが生けられていました。妻に聞くと、母が実家からもらってきたもので、それは義母が、義母の実家の親類の方からもらったもの。つまり義母の実家にはいちはつが植えられ、それが今も咲いているというのです。さらに聞くと、そのいちはつはかつて鎌倉の知り合いからもらったものだのこと。「鎌倉の知り合いからもらった」経緯はわかりませんが、いちはつに対する思い入れがあってのことでしょう。もちろん今は茅葺き屋根ではないから、棟に咲いていたものではなく庭に咲いていたもの。それからもう数日経っているのでさすがに花はしおれてきましたが、あのいちはつが部屋に飾られていて、それを毎日鑑賞しているなどということは、しばらく前までは全く想定外のことでした。 . . . 本文を読む