鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

鈴木かほるさんの『坂本龍馬の妻お龍』について その2

2008-06-03 07:12:26 | Weblog
なぜ坂本龍馬の妻であったお龍(りょう)と横須賀が関係あるのかと言えば、それはお龍が明治7年(1874年)から明治39年(1906年・没年)まで現在の横須賀市に居住し、そのお墓も横須賀にあるからです。お龍が京都から東京へ向かったのは明治6年(1873年)の秋。そのお龍が、西村松兵衛とともに妹の光枝夫妻が間借りする三浦郡浦賀町大津村(現在の横須賀市大津町5丁目)にやってきたのは、その翌年である明治7年のことでした。その翌年、お龍は、西村松兵衛方の三浦郡豊島村深田(横須賀市深田台)222番地に入籍しています。お龍は35歳、松兵衛は5歳年下の30歳でした。明治35年(1902年)、松兵衛はお龍の妹光枝とともに三浦郡豊島村中里へ転居し、お龍と別居。その4年後の明治39年(1906年)1月15日、朝6時、お龍は三浦郡豊島町深田321番地で亡くなりました。お龍の葬儀は1月20日に田戸の聖徳寺で行われ、その遺骨は京都霊山の龍馬の墓のそばに埋葬されました。大正3年(1914年)8月、三浦郡浦賀町大津の信楽寺(しんぎょうじ)にお龍の墓碑が建立されていますが、その施主は妹の光枝。賛助人は、夫であった松兵衛と信楽寺の住職であった新原了雄らでした。その松兵衛が亡くなったのは、翌大正4年(1915年)。同じ信楽寺に葬られました。施主であった光枝が亡くなったのは昭和元年(1926年)頃。お龍の末妹である「きみ」が亡くなったのは昭和9年(1934年)9月20日。享年84。あの24歳の若妻であった「きみ」は、その後60年の歳月を生きたことになります。 . . . 本文を読む