ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

郡山・「うすい」

2014-11-18 14:13:27 | 街 探求!

郡山・「うすい」

秋の日、旧友の集いで郡山へ行きました。
郡山は地名に馴染みはあるのですが、通過駅で、街自体を歩いたことがありません。
会津とか猪苗代とかには、足を運んだことがあり、また一度、白河用事の時、水郡線で水戸までいって、大回りして帰った事もあります。

その当時でも、気になっていたことがありました。関東以北の地方百貨店の雄、「うすい」の存在です。GMS(ゼネラルマーチャンダイズストア・総合スーパー)全盛の時代・・・ダイエーとかイトーヨーカ堂などのこと、GMSの思想と”真逆思想”の強力な地方百貨店の存在は、かなり興味の対象でした。その百貨店は、川越の「丸広」、熊谷の「八木橋」、そしてこの郡山の「うすい」でした。

GMSの思想の骨格は、「地縁、人縁、血縁という煩わしい人間関係から解放された商業空間」と言うことになります。従って、物を買わずに帰ってきても、気を煩うことがありません。このコンセプトは、若者中心に支持を受けて、GMSは爆発的に発展します。
地方百貨店は、この「地縁、人縁、血縁の関係性を、フルに活用しながら、信用というブランドを構築していきます。そのため、地方の良家の子息たちを積極的に雇用します。そして「おらが街の百貨店」という信用を構築していきます。・・・銀行の信用構築に似ているようです。
この信用構築のサイクルが何世代も続くと、その地方の有力者に染みこんでいき、その牙城は強固になっていきます。その極めつきが、「うすい」であったり、「丸広」や「八木橋」だったりするわけです。

今となっては、その創業者一族は、時代に迎合できなくなり退場して、資本と商品の仕入れを都市百貨店にゆだねるようになってしまったようですが ・・・

そんな「うすい」の建物とか売り場をみても、”コンセプト”とか”ノウハウ”は、分かるはずもありません。だって ・・・信用構築というやつは、地道な”種まき作業”の上に咲く花だからです。 ・・・と、分かっていても、集合時間少し前に来て、眺めています。

友人たちと集合して、昼食の時間と言うことで、ここの地元の友人が、郊外の住宅街の中にある、「天ぷら・佐久間」という店に連れて行ってくれました。


ここは、超繁盛店で、福島県内全域から客が訪れると言うことです。
駐車場に車ぎっしり、店内は席待ちで溢れています。待つこと20分ぐらい ・・・


席に着くと、天ぷらコース料理、四回に分けて天ぷらが運ばれてきます。
みんな美味しかったが、特に最後の”エビと小柱のかき揚げ天丼”が美味しかった。


さて、郡山の歴史だが ・・・

中世のこの地方をみると、坂東平氏の平良文の支流がこの地方に居着いたようです。彼等は、石川一族とか薄井一族と呼ばれた同祖分流の同族の小豪族であったようで、やがて戦国期に、伊達政宗の伊達家の配下に組み込まれていったようです。この薄井家は、秀吉の小田原征伐に出征しないで、お咎めで没落して野に下る運命になった。この時、豪農になった薄井家が、郡山・うすい百貨店の創業者に繋がるのかどうかは定かではないが、否定する要素もないので、勝手に郡山・うすい百貨店の創業者一族は、戦国豪族・薄井氏であろうと想像しています ・・・根拠はありません。

江戸時代の幕藩体制下の頃は、郡山周辺は、深い原野であったという記録が残っています。藩領としては、三春藩の方ではなく、二本松藩の方で、二本松藩の代官所が郡山に設置されていたそうです。二本松藩は、維新の時、会津藩を中核とした奥羽越列藩同盟に加わっており、同じ奥羽越列藩同盟の三春藩が、早くに脱落したため、板垣退助の維新軍の攻撃をもろの受け、会津白虎隊と同様の少年隊を組織していた二本松藩は、その少年隊の悲話を残し、語り継いでいます。

郡山の商業都市としての発展は意外と若く、郡山が磐越線の東西線、水郡線の発着駅として機能し始めた頃からと見ていいようです。若い都市としての急激な発展は、急増する土地成金を生みだし、高騰する不動産へ利権が蠢き、治安が悪化していったようで、高度成長期によく聞いた話です。それへの対応策として、文化事業への取り組みに力を注ぎ、今では音楽の分野で一定の成果を上げ、ここの地方の「コーラス」は全国レベルまで上がっているという。・・・いまでは”落ち着いた”地方都市になったようです