氷川神社境内の見取り図 ・・江戸時代寛政の頃
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今の、氷川神社の境内の社格とだいぶ違います。
まず明治初期に起こった廃仏毀釈の運動で、別当寺である氷川神社の神宮寺が破壊されて撤去されています。従って、宝積院、愛染院、大聖院、常楽院、統轄の神宮寺はなくなっています。
(西)角井家は今の社務所の所でしょう。
(東)角井家は、昔の趣そのままに、参道脇に存在します。
(東)角井家の隣、少し竹藪が見えます。・・・ここが神宮寺跡ではないかと・・・
・・岩井家跡・刺使斉会館
さて岩井家ですが、神主はもうやめていると聞きます。
とすると、絵図面の二ノ鳥居は、今の三ノ鳥居のことでしょうか。岩槻街道に面した、今の二ノ鳥居は創建が新しく、少なくとも江戸時代以前は、今の二ノ鳥居は存在しなかったことになります。
境内の中の配置もかなり違う様です。拝殿と楼門が新たに加わり、拝殿後ろの男体社と女体社は奥殿に収まっているため様子が分かりません。門客人社は荒脛巾神社のことに思えます。*荒脛巾・アラハバギ、と読むのだそうです。
昔、三社一体であった氷川神社は、それでもそれぞれが別の所にあったため、別々の担当がいたらしい、とのことです。
・男体社(氷川神社)は岩井家が、・女体社(氷川女体神社)は(東)角井家が、中氷川社は内倉家のちに(西)角井家が担当だったようです。・・・明治になって、三社が合祀されると、神主達は男体社に集まります。集まった神主達の居所が、先ほど確認した絵図面の場所のようです。
合祀されて、主祭神のいなくなった旧社の女体社と中氷川社は、地元の氏子達によって僅かに守られますが、それでも荒廃していきます。