ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

みむろ物語 ・・・武蔵武芝のこと

2014-01-23 00:23:17 | 史跡

・・みむろ物語・見沼と氷川女体神社を軸に・井上香都羅(かつら) 著

この本は絶版と聞きます。扱っている内容から、読者を多く持たなそうで、発行部数も少なそう。現在は流通段階に在庫が少数あると聞きますが、・・・

はじめは、三室のこと、氷川女体神社のこと、見沼のこと、武蔵一宮の神官家のこと、そして見沼干拓のこと、女体社の祀り、社僧と社家と続いて、見沼干拓以降で女体社の修理造営の話があり、明治以降の三室が語られています。・・・巻末は、武笠家と武芝の関係など示す系図があり、武笠家の所有した古文書が付録されています。

著者紹介・・・井上書都羅(いのうえ・かつら)

昭和9年 熊本県天草本渡市に生まれ。 独学で「大検」合格。
昭和27-57年 海上保安庁・ 海上保安官。34年 巡視艇爆発、両脚切断。
昭和42年 車の免許取得、翌43年施設訪問全国一周。以後、福祉活動、ボランティア活動に従事。
著  書 体験記『やればできる』(講談社 1970年)
     『別府温泉入門案内』(1985年)
     『銅鐸「祖霊祭器説」─古代の謎発見の旅』(彩流社 1997年)
現  在 古代史、考古学、民俗学研究

・・・、両脚大腿部切断というハンデを負った著者が、両足に義足を装着、松葉杖を支えに、手動式改造自動車を駆って、北は北海道から南は沖縄まで、縄文・旧石器遺跡500ヶ所以上を踏査。あるときは杖もつけない崖を岩や木の根・草の根につかまり、はい上がりながら、調査を続けた。そして、神山信仰は日本に独自に発生したのではなく、大陸から伝えられたものだという確信から中国・韓国まで足を延ばし、十数ヶ所を調査、事実であることを突き止めた。・・・「遺跡が何故そこにあるのか!」という必然性を証明し、考古学界・古代史界への新しい“挑戦状”・・・

みむろ物語・・・

まず、書の途中、武州一宮の神官家のところから・・・

この場合、武蔵一宮氷川神社は、維新の法令によって一カ所に集められて合祀された、今の大宮氷川神社のことではなく、それぞれが独立の社稜を有しながら、三社がまとまって、氷川神社と呼ばれていた江戸時代以前の”一宮”のことです。高島に氷川男体神社、中川に中氷川神社、三室に氷川女体神社がそれぞれあり、祭神から言えば、須佐之男命の男体社(大宮氷川神社)から南東に、ほぼ直線に、王子神 大己貴命の中氷川社、奇稲田姫命の女体社と並んでいます。言ってみれば、父・子・母となるのでしょうか。
・・・ただ中氷川社は、多少妙な感じがします。境内の参道を挟んで荒脛(アラハバキ)社があり、更に火の神事を行う火塚が存在します。火の神事により、中氷川の真ん中の文字が熱で溶けて、ついには中川となり、ここの地名なったという言い伝えがあり、中川の山の神社というところから、中山神社の別称もあります。荒脛といい、火の神事といい・・ペルシャ辺りの”ゾロアスター教”を連想してしまいます。・・・道草でした。

武笠家のこと・・・
 氷川女体神社の神主家は、長いこと武笠家でした。・・氷川女体神社は、短略で女体社と書くこともあります。同様に、対で男体社(氷川男体神社=氷川神社)もあります。
 この武笠家の祖先の出自が出雲族ではないだろうか、と言うところから、この書の解説は始まります。まず女体社は、由緒書に出雲から勧請された、とあり、出雲の加茂の神原神社にも、武蔵の氷川神社を出雲からの勧請の記録が残ります。この頃氷川社は、男体社と女体社に分かれておらず、従って神主家も同一族であったと考えられます。当時の環境などの状況からは、まず三室が氷川神社勧請地として、可能性が高いように思われます。これは定かではありません。記録にある崇神天皇の時代は弥生時代と比定できます。そして、現在の大宮氷川神社の神主。西角井家に残る古代系図に、その祖を、出雲族の祖の天穂日命(アメノホヒノミコト)と記録にあります。・・・系図は、時折後世に作為された可能性は残りますが。武笠家と角井家は、歴史書の記録の中にその関係性が出てきます。武笠家にも古代家系図はあったのであろうが、室町期に、盗賊に襲われて記録が焼失したという資料が、武笠文庫にあるそうです。それより、何よりの証拠は、弥生時代から延々と続く三室山・出雲神信仰を、同一の場所で継続して続けてきたこと自体が、武笠家を神官家とする証明であると確信します。
 さて、武笠家は、古代に武笠佐伯家と呼ばれていたそうです。女体社の由緒諸に「天武天皇の御宇白鴎四年武蔵一宮御来栄有之、神主佐伯朝臣国造足立郡司に兼任せらる」とあります。ここで分かることは、弥生後期を経て、奈良時代に武蔵一宮は存在し、神主が佐伯という人であり、武蔵国の一部の足立郡の首長に任じられた、ということ。その前は、地方首長は、国造という役名で、どうも廃止になり、新たな制度の郡司という役が出来たようです。・・・別書で確かめると、「大化の改新」で新制度の国司、郡司の制度がここから始まっています。どうやら、国司は中央(=朝廷)からやって来る、郡司は従来の在郷の国造の役名の取替のようです。武笠家は、女体社の成立以来の神官ですから、武笠家と佐伯家は同じで、武笠佐伯家ともなるようです。

 また、「続日本紀」の・・767年の12月6日と8日の条に、6日・「武蔵国足立郡の人外従五位下丈部直不破麻呂等六人に姓を武蔵宿禰と賜う、8日「外五従位下武蔵宿禰不破麻呂を武蔵国国造となす」の記載があり、氷川神社の神官・角井家の祖先として西角井家の古系図にあります。・・東西の角井家の分化は、この時代より後年に起こります。・・この文章を精査すると、武蔵宿禰は複数人いたようです。それと角井家と武笠佐伯家は同族のようです。
・・・ここで釈然としないのは、宿禰や佐伯が姓なのかどうかです。あまり詳しくないので、奈良時代の位階などを調べます。
・・まず宿禰・八色の姓(ヤクサノカバネ)とは、天武天皇が684年(天武13)に新たに制定した「真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置」の八つの姓の制度のこと。中央集権制のヒエラルキーの姓で、純粋の苗字とは別の位を示すもののようです。その中に”宿禰”はあります。
・・佐伯・佐伯部を率い、宮門警備や武力勢力として朝廷に仕えた、とあります。地方の朝廷親衛隊の意味でしょうか。元々は官の統治のための下賜姓のようですが、平将門の乱以降、武笠家は、中央への従順の意を示して、佐伯姓を名乗ったのでは無いかと推測します。醍醐天皇の時代に「佐伯朝臣幸栄に従五位下を下し賜う」との文があることから、類推の読み方で、織田弾正忠平朝臣信長=織田信長が正式な名乗り、を思えば、佐伯朝臣幸栄が正しく、その頃武笠の名を見つけることは出来ません。恐らくは信長の名乗りに従えば武蔵佐伯朝臣幸栄となるのではないかと想像します。角井家の登場もこの時代の後のことのようです。
・・上記のように、同じ氷川神社の神官であり、同じ位階の従五位下を賜っているところを見ると、佐伯家と丈部直家は、同族でしかも位階も同じと言うことになり、上下の関係が見えてきません。

*参考:織田信長は正式には、織田弾正忠平朝臣信長で織田は家名、弾正忠は通称、平朝臣(タイラアソン)は氏名、信長は実名となる。

 ここで、武蔵武芝のこと・・・
 武蔵武芝は、天穂日命を祖とする武蔵国造不破麻呂の六代の孫とあります。そして、武蔵国造・足立郡司・判官代という三つの役職が記録されています。武蔵武芝の足立郡司の統治の時、中央から国司代武蔵権守興世王と介源経基が赴任してきます。この中央からの役人と武芝の間で紛争が起こります。・・・前述なので詳細略・・・。こうして起こった「将門の乱」は将門の敗北で幕を閉じます。
 武芝については、先述の”不破麻呂六代の孫”とありますから、西角井家の系列です。
しかし・・・武蔵武芝と武笠の名前に、恣意的な類似性を感じてしまいます。偶然かどうか分かりませんが、「将門の乱」以後に武笠家が顕れ、以後の名前の中に、武笠武豊とか武笠房武とかの「武」の重なる名前が確認出来ます。そして・・・武蔵武芝は、武を笠にして重なるので、敗戦で武蔵を外して、神官と農に帰して恭順を示したのではなかろうかと・・・焼失した武笠家の系図には、祖として武笠武芝の名前があったのではないかと・・・今となっては推測するしかありません。
・・頼朝の時代の西角井家の家系図に、角井家から武笠佐伯家に嫁に行った女子が記されているそうです。佐伯径高妻となっているそうです。古代から幾たびか婚姻関係があり、その証左の一つとされています。
・・武蔵武芝の本拠地はどこか、は明らかになってはいません。三室が聖地であり、人口集積のあとが確認されるところから、大宮氷川の地より三室の方が可能性が高いと思いますが、定かではありません。
・・・氷川神社の神官は、明治維新以降合祀された氷川神社で、参道から拝殿への第三鳥居の左側に、西角井家が、左側に東角井家が、東角井家の隣の竹藪が神宮寺(別当寺)の跡になっております。長らく男体社の神官であった岩井家は既にありません。

・・・・・ことわり;上記文は「みぬま物語」に準拠していますが、角井家と武笠家の出現を、「将門の乱」以降にしています。また、武笠佐伯家を、武笠を家名とし、佐伯を氏名とし、武芝を実名としています。佐伯を古代中世の苗字、武笠を中世現代の苗字としている混同が見られます。この部分は、少し書き換えてあります。


 


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