大湯祭・・・
大宮氷川神社の12月10日は、大湯祭と呼ばれる”火の神事”が盛大に行われます。別名を、10日に行われることから、"十日町”とも呼ばれ、続いて浦和調(ツキノミヤ)神社の”十二日町”の”火の神事”が行われます。この、”oo町”は、屋台の出店の”さま”を言っているようですが、”火の神事”は、なにやら”ゆかしい”ような神秘的でロマンを感じます。
・・・門客人社 in 大宮氷川神社 *門客人(カドマロウド)と読むそうです。
”火の神事”=大湯祭は、どうやら門客人神社の祀りごと、の言い伝えのようです。門客人神社のことを調べて見ると、出雲族がこの地にやってくる前の地元神だという。地元の民が先にいて、あとから出雲族がやってくる訳だから、なにか逆のような気がする。門客人神社のことを、荒脛巾(アラハバキ)神社とも言うらしい。”マロウド”とか”アラハバキ”とか、言葉が日本語とも思えなくなる。
大湯祭は、古くは「御火祭り」「火剣祭」といい、神橋の手前東側にあった本地堂(観音堂)東の芝地で火渡りを行い、火王子社殿前で釜湯の神事探湯(くがたち)を行っていたそうです。これは釜に湯を沸騰させ、笹を湯につけ、それを振り掛けて清めをおこなうものです。それで大湯祭というようになったそうです。ただこの儀式は江戸時代に、儀式のやり方を吉田神道家と相談して、それ以来と聞きますから、古式の本来は”火渡り”などが基本で、中氷川神社と同じやり方だったと想像しています。本地堂は、本地垂迹の考え方の現れで、神仏習合の残滓の具体的な残存でしょう。本地垂迹説なるものは、あまり分かりませんが、「神も仏も、もとは一つの聖なるもので、現世に顕れる形が神であったり仏であったり、違う形で顕れる」というもので、現状を追認した方便論のような気がします。
・・・「御火祭り」は「おんべ焼き」(地方によりどんと焼き)に通じるのではないかとも思います・・
地元の民は、火を使って鉄を造る蝦夷の人達のようである。縄文・弥生を経て奈良朝の辺りの武蔵野の地は、蝦夷の土地であったらしい。・・・ここら辺までは、何とか理解出来ます。蝦夷の人達が、火を使って、鉄を造り出す技術・文化があったらしい。そうすると、氷川神社の周辺は、産鉄の地と言うことになります。
大宮氷川神社から、そんなに遠くない伊奈町小室の県立がんセンター敷地内で、昔の製鉄所・”たたら"跡の遺跡が発見されました。「大山遺跡」と言います。氷川神社から約8Km。・・・昔、関東郡代頭・伊奈熊蔵忠次の居館・陣屋のあった場所の近く。・・・小室という地名もなにやら意味深?・・・
参照;大山遺跡 | 公益財団法人 埼玉県埋蔵文化財調査事業団
三社をもって一神社となす、の大宮氷川神社の中氷川神社(=現・中山神社)に、それらしい神社があります。
荒脛神社の読み方は、アラハバキなのかアラスネなのか分かりませんが、門客人神社のことでしょう。アラは砂鉄から鉄を造る”たたら”のときに出る鉄滓を言います。
神社の前に、"火の神事”を行う「火塚」があります。古代より江戸時代まで、この神事は行われていたが、明治・大正と行われなくなり、最近この神事は復活したと聞きます。燃え残る炭火の上を、裸足で歩くのだそうです。四方の火塚の四隅に石が置かれています。この火塚の神事の火力で、中氷川神社の”氷”が溶けて、この地区・中川が名付けられたと聞きます。ちなみに、この”鎮火祭神事”は12月8日に行われるそうです。
順に”姫石”、”力石”、”力石”と彫られていて、最後の石は解読不能。・・・この石の意味は解けません。
・・・中氷川神社(=現・中山神社)
荒脛巾神社を奉じた蝦夷人達は、一部は出雲族に同化し、一部は東北に後退した、とききます。
東北・多賀城に、製鉄の伝説を持った荒脛巾神社が存在します
・・多賀城・荒脛巾神社
・・多賀城跡
蝦夷の人達は、鉄を狩猟に使って、農具には使わなかったのでしょうか・・・