比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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秩父路を行く・・・椋神社・・・秩父事件の原点

2008-11-20 | 秩父事件を追って
前から訪ねてみたいと思っていた武州秩父の椋神社にやってきました。
秩父吉田町の氏神様ですが日本の憲政、自由民権の原点でもある「秩父事件」の表舞台になった社の杜です。
下吉田の街の中に大きな石柱が立っていていてそこから橋を渡り坂を上がり神社への路が続きます。

坂の途中、狭い石段を昇ると鳥居です。鳥居の両側に阿吽の狼様がいます。

椋神社です。広々とした社の庭が広がります。
延喜式(927年完成の律令時代の法律、行政書)にも名前が載る古い格式のある神社(710年造営)です。

秩父事件百年の碑・・・「鎮魂の譜
秩父地方の農民3000有余人がこの神社の境内で総決起集会を開いたのは1884年11月1日・・・のちにいう秩父事件の始まりです。この碑はあれから100年後1984年(昭和59年)11月1日に建てられています。


秩父事件を象徴化したブロンズ像・・・狼煙を持った農民の姿でしょうか。

斧や鍬を振るう農民が、圧制を変じて良政に改めるという思いを叫んだようすがひしひしと伝わってきます。

以下は08年5月10日のブログ秩父路を行く・・道の駅「龍勢会館」・・『草の乱からの一部抜粋文です。重複しますが再掲載しました。

秩父事件って何だったのでしょうか。江戸時代の一揆、強訴? 江戸時代から明治の御世に、年貢が金納に、支払い先が大名から日本国に変わりました。米作の地域は米を換金できますが米作のできない地域はどうしてたでしょうか。日本は80%が山ですからとうぜん山や谷に住む民がむかしからいます。V字谷の秩父の谷は米作に適した沖積地はホンのわずか。「耕して天に至る」ような段々畑にできる緩やかな傾斜地もわずかです。江戸時代は榑木(クレギ・・板屋根などの材料)、薪炭、蚕糸、煙草、蒟蒻、干し柿などを換金したりしていたと思います。農間期の手内職、出稼ぎも貴重な収入源だったでしょう。そういう土地は幕府も天領にしたり譜代大名領にして面倒見てきました。年貢も米が取れないところは別のモノを定めたりしています。江戸時代ってけっこう民あっての御政道だったのです。
これが明治の御世になるとキビシクなります。おりしも松方大蔵卿の時、政府は明治維新の経済的なツケや軍事力の増強とかで、デフレ政策(通貨抑制)、増税政策をとります。当時の秩父の農民の収入は生糸中心だったようで、養蚕の準備資金を高利貸(消費者金融)から借金して生糸の売り上げで借金を返す、そんな繰り返しです。それがデフレによる商品価格の暴落と欧州生糸市場の暴落が重なり(生糸相場は半値といわれます)、金利の暴騰(10円が1年で26円に)でニッチもサッチもいかなくなったのが1884年。「身代限り(破産)」、小作農への転落、一家離散、夜逃げなどです。担保流れを買った不在地主層が増えていきます。
秩父困民党事件。最初は請願のつもりだったのでしょうか。要求4項目です。

①債権者に迫り10年据え置き40年賦に延期を乞うこと
②学校費削減のため3年間休校を県に迫ること
③雑収税の軽減を内務省に迫ること
④村費の軽減を村に迫ること


生きるか死ぬかですから当然の請願です。要求はすべてハネラレマス。高利貸(マチ金)や地主豪農の打ちこわしという最悪の方向に進んでいきます。
1884年秩父困民党事件勃発。政府は軍を派遣します。

 10月31日 風布村で農民蜂起、130人
 11月1日 下吉田村椋神社で決起集会、3000人
 11月2日 大宮郷(現秩父市街)郡役所に本部、10000人 
 11月4日 金屋村の衝突、800人、12人死亡
 11月5日 粥新田峠の衝突、100人
 11月9日 信州東馬流(現小海町)300人、野辺山原200人の衝突で終了 14人死亡
略奪、女犯、飲酒、放火、命令違反を禁じた軍律もありました。
農民側の死者全部で30人。官側の死者5人
首謀者のうち12人が死罪(2人行方不明、2人病死、死刑執行は8人)、そのほか懲役刑が140人余、罰金などが3600人余。

勇ましくも悲しい物語です。帝国憲法も帝国議会も参政権も無い時代です。
民のための、民による、民の政治・・・そんなものはどこにもありません。お上にたてつく逆賊、暴徒として片付けられました。
いまの自由と民主主義の重さの中には、明治の時代の夜明けに起きた自由と民権のための変革運動「秩父事件」が源流に流れていることはいうまでもありません。
秩父困民党事件は秩父人の誇りです

訪れる人も無き静かな境内です。おばあちゃんが一人木の下でなにやらしています。こういうことはすぐわかります。銀杏拾いです。さっそくビニール袋と手袋を出して仲間に入れてもらいました。先を急ぐので少々です。
おばあちゃんと話をしながら楽しいひとときでした。


   粛々と イチョウの葉積る 椋神社
   困民党の 閧の声か松籟か 椋神社 
   椋神社の 香りつたえてよ イチョウの実 


城峯山に向かいます

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2 コメント

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感謝、感謝、涙ながらに読みました。 (縄文人)
2008-11-20 17:22:01
 この椋神社には何回通った(訪れた)ことでしょう。
急な石段を、横の勝ち道を、裏から廻り込んだ道を・・・それもそのハズ、私の生れたところ、目と鼻の先です。
 いまではこうして、100年の記念碑なるものが建立されていますが、
小学校に通うころは、
「ホレ・・あの家が暴徒が出たうち、ここが、傳さんの出たところだ・・家も何もなイヤー、そしてこの山の一つ向こうに蔵があるが、暴徒の隠れ家だ…北海道へ生き延びた」
などなど、幼き頃は何もわからないから暴徒=悪党と思っていたものです。
 年を重ね、時代が変わり事件の起きた時代背景を検証してみますと、やむにやまれず執った若き人々の先進的な思想であったのでしょう。
困窮、地を這うような苦しみ、働いても働いても楽にならない、農民への仕打ちなど事件書を紐解くとありありと解ってきました。

 祖母が何モ分からぬ子供に、こう話したのが鮮明に残っている。
「椋神社を出た、暴徒は筵旗を持ち、頭に白鉢巻き、竹槍を持って軍勢の声を挙げ、上吉田の方(巣掛り峠)に走り去って行ったのが見えたんだ……あ・・・・。」
こうして家では話されたが、表立って外で話すことは無かった。

 この秩父事件について、多くの方々が検証、調査、現地実査などなどして世間の表に出てきました。
時代は変わり、事件がアリアリとこのように皆さんに関心を持って迎え入れられることが、その当地で生まれたものとして有難いことです。
ヒキノさんには、
いつも詳細にupしていただき感謝です。

 ○ 山峡の地 耕して耕して 天に至る (秩父の合言葉)

  耕地が狭い、上から下でなく、下から上に掘る”逆さ掘り”。

 ○ 秩父路や 天につらなる 蕎麦の花  (歳時記から)

椋神社レポート、一字一句かみしめながら読ませていただきました。
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椋神社に集結したのが (縄文人さんへ・・ヒキノ)
2008-11-21 12:04:54
11月1日、少し遅れましたが秩父事件を偲びに訪れました。
暴徒、いまならアカとでも言うのでしょうね。
天子様の軍隊と一戦交えたのですから国賊です。

この石碑はたいへん抑えたいい文章です。よく読んでいくうちに血涙の思いがジーンと伝わってきます。
百年碑を立てた方の秩父を思う心も良くわかりました。
むかしからの宿題が一つ解決しました。
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