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秩父地方 歴史と伝承 外伝 ・・・菊紋と豪族

2013-06-09 17:45:34 | 歴史

秩父地方 歴史と伝承 外伝
                         ・・・菊紋と豪族


秩父に、菊紋の神社がある。秩父を代表とする、あの秩父夜祭りの中核となる、秩父神社のことである。だが、秩父神社の紋は、菊の他に葵の紋と銀杏の紋もある。

              転記

縁起・・
秩父神社は、崇神天皇の御代に知知夫国の初代国造の八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神をお祀りしたことに始まります。それは武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至っています。ですから関東でも屈指の古社になります。また、中世以降は関東武士団の源流、平良文を祖とする秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し、長く秩父妙見宮として隆盛を極めましたが、明治の神仏判然令により秩父神社の旧社名に復しました。現存の社殿は、天正20年(1592年)に徳川家康公が寄進されたもので、江戸時代初期の建築様式をよく留めているいます。また、毎年12月3日に行われる例祭は、「秩父夜祭」として国の重要無形民俗文化財に指定され、京都の祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭のひとつに数えられています。
まず、豪族・
まず検証として、平良文とは、板東平家の租といわれ、将門の窮地を救った妙見菩薩が平良文の守り本尊でもあることから、平将門と平良文は同盟関係ではなかったか、と言われている。この平良文は、秩父と男衾(深谷)を領有した畠山の祖と言われ、秩父神社の前身名は秩父妙見宮で、畠山の護り神社でもある。畠山は、鎌倉幕府成立前の、平清盛との戦いの時、頼朝側に属して貢献し、北武蔵野の鎌倉道の押さえで菅谷に移り、館を残している。  菅谷館の畠山忠重像

この付近に意味深な地名が二つ、大蔵合戦の大蔵、外秩父の都幾川の小倉城が、畠山家との関係がありそうである。だが、残念なことに、地名を残して資料を残さずで、手がかりは皆無に近い。
誰がその地に存続したかと言う記録はないし、南北朝時代に南朝の皇子を助けたという記録も無い。
そして歴史・
その後、秩父地方は、上杉管領が治めるところとなり、次ぎには上杉が後北条に破れて、小田原北条の系列の北条氏邦の知行になり、その後、徳川時代、伊奈代官所の管轄を経て、伊奈忠次の計らいで経済的に苦しむ忍藩に、生産力のある秩父の平地部分が割譲された、という経緯がある。米の生産のできない山林のある山岳は、幕府直轄地のままで、川西材と呼ばれる材木の管理は、関東郡代・伊奈家が行ったのだろうか・の疑問は残ったままであるが。・・・秩父の樽木の関連は「、関東郡代」の書を著した人に確認したかったのだが、叶わなかった。
江戸時代の初期、秩父神社は、大改造改築を行っている。勿論家康の命令だが、総プロデューサーは天海僧正である。社稜の配置・縄張り、そして外装の装飾は当時の名人をかき集めて荘厳な彫刻が施された。有名な左甚五郎も集められた。その完成を見た後、秩父神社と瓜二つの、日光東照宮が造られた。当然ながら、天海僧正が指揮を執り、秩父神社造営の職人がそのまま、日光東照宮を造った。勿論左甚五郎もである。秩父神社と東照宮は瓜二つだが、少し違う部分もある。猿の彫刻もそのひとつである。

      秩父神社の元気猿  元気猿の看板

日光東照宮の三猿は、見ざる、言わざる、聞かざる、である。

秩父神社の葵の紋は、天海(随風)の造営の記念の紋である。
すこし脱線だが、面白い話が纏わる。
秩父神社の拝殿と本殿の間の幣殿側面に、東西に向かい合った二人の人物の彫刻がある。東には右手に竹笹を持つ桔梗紋の男がおり、対に僧侶の彫刻がある。

 光秀?なのか  桔梗紋

男の紋は桔梗紋。その他に、秩父神社も日光東照宮も屋根の瓦には桔梗紋のついた瓦が何枚も使われており、これに謎めいた桔梗紋の男の彫刻が加わり、春日の局の出自が語りかけ、日光のいろは坂の明智平の名付けが天海僧正と聞いたら・・・もう、年齢も似通うところから、明智光秀は=天海僧正と、まことしやかに、ささやかれる。真偽は分からないが、面白いことは確かである。先頃ついに明智平は、展望台まで造ってしまったらしい。・・・脱線ではあるが。

明治に入り、秩父神社は、秩父妙見宮の名前を棄てて、秩父神社と名乗るようになる。
さらに菊紋・
昭和に入り、秩父宮に名に由来し、宮が秩父神社に合祀される。この時、この神社に菊紋が下賜される。従って菊紋は昭和になっての話のようである。菊と葵を除けば、秩父神社の本来の紋の銀杏が残る。
秩父神社の神紋は銀杏と言うことになる。


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2 コメント

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Unknown (まさ)
2016-10-09 05:55:44
とても丁寧で読みやすいブログで感銘を受けました。
秩父についてもっと知りたくなります。

秩父神社の記述で、「承久の乱」と頼朝、というところが
歴史が前後しているのが気になりました。
返信する
re:頼朝 (押田庄次郎)
2016-10-11 05:58:16
ご指摘ありがとうございます。
「承久の乱」1331、頼朝没1199、でしたね。修正しておきました。
他にも、浅学のため”怪しい”ヵ所がありましたが、その後のブログで、改めたものもあります。
今後も、よろしくお願いします。
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