ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

風布のかえるの神社、姥宮神社の菊花紋

2013-06-02 06:53:39 | 建造物

姥宮神社の菊花紋

   転載

 

屋根の上の鬼瓦の所に、目立たないが、よく見れば、16花弁の菊花紋です。
皇室関係の紋で、通常は使用を禁止されているようです。ただし例外があります。

ほかにも、神社建物の周りの社殿彫刻も、多少色を残し、極彩色のなごりをうかがわせます。建築様式も権現造りをでしょうか、鳥居も立派で、なにか格調が高そうです。明神鳥居で貫に彫刻もあります。

           転載

 姥姫神社は、元あった場所は、みかん山の頂近くだそうで、後に今の地に移転したとの伝えがあるそうです。理由は分かりません。

 すると・・・

菊花紋のの由来は二つ考えられます。ひとつは、南北朝時代の後醍醐天皇の皇子達の一人の隠里、もうひとつは、木地師の郷ではなかったのか、という想像です。
ふるい、江戸時代以前の話です。

 木地師の説明を引用します・・・・・

木地師と言う者がある。 生業を木にもとめ、山に住み、主に食器としての椀や盆をつくり、それを里に売って生活していた者達のことである。この者達は、「轆轤(ろくろ)」を使い、円形の器を造ることを得意とした。木も選ばれた。しゃもじやさじやへら等は堅い桜木を、椀や盆などはほうやとちを、箸などは杉を材料とした。生活は小集団単位で3から5家族ぐらいが多かったらしい。

 年代は古く、平安時代の話、文徳天皇の長男に惟喬親王(これたかしんのう)がいた。文徳天皇は長男の惟喬に天皇を継がせたかったが、弟に天皇を継がせることになった。異母兄弟の弟の方が外戚の力がかなり強かったためとされる。惟喬親王は滋賀県神崎郡永源寺町の小椋谷に逃れたという。この地の小椋谷で惟喬親王は、木材の木地を荒挽し、轆轤を使って盆や椀などを作る技法を伝えたとされる。また、木地師の伝承では文徳天皇の第一皇子惟喬親王を職能の祖とし、その側近藤原実秀の子孫が小椋氏、惟仲の子孫が大蔵氏になったという。近江の小椋谷にある君ケ畑と蛭谷は、羊腸たる山道の果てにあり、とりわけ木地屋(師)が自分たちの先祖と称している蛭谷の惟喬親王の墓のあたりは、南北朝時代の宝篋印塔が残っており、深山幽谷の気配が濃くたたようところであった。君ケ畑の地名は惟喬親王が幽開された所ということからつけられたというが、さだかではない。

 木地師文書と言うものがある。
 この木地師文書というもの、「文徳天皇の大一皇子、小野宮惟喬親王が祖神で、この一族の小椋、小倉、大倉、大蔵の姓のものは木地師であるから、この文書を所持しているものは全国の山の樹木を切ることを許す」という免許状である。この文書を持った木地師は日本の各地に散っていった。食器を作る木を求めての旅であるから、ほとんど山岳である。木地屋(師)は関所の通行手形のかわりに、近江の君ケ畑の高松御所の十六の花弁の菊の焼印を押した木札を見せて、関所をまかり通っていたことが、「伊勢参宮道中記」(会津の小椋長四郎家に伝えられた嘉永三年(1850))に記されている。求めた木の多い山を見つけ住み、山の木を伐りつくすと、次の山に移っていった。これを「飛」と称した。木地屋(師)の移動するところ、その足跡を印す地名が生まれた。各地に残る轆轤、轆轤谷、六呂山、六郎谷、六郎丸、六九谷、六六師、鹿路などの地名は彼らの居住したところである。
 従来、山はその村里の共同所有地であり、個人所有地でなかった。そのため、その地の領主か村長に了解を取れば入山が可能であった。山を渡り歩けたのは、この為であったが、明治になって山の所有権が決まってしまい、木地師は定住を余儀なくされる。一族の小椋、小倉、大倉、大蔵の姓のものは全国に多いが、ほぼ山岳に祖を求めることができるという。長野県では、大鹿村も勿論だが、長谷(昔は黒河内)、木曽(小椋より大蔵姓の木地師祖先が多いらしい)、大平村(飯田市大平・・昔大平宿現在廃村?)に、この姓を多く持つ。なお、大平峠を越して南木曾に入ったあたり、漆畑という地区がある。たぶん地名からして、良質の漆の木をもっていたと思われる。更にこの地は、地区民全員が「大蔵」と「小椋」を名乗り「大蔵」姓の方が多いという。さらに、この地の生産は椀などの漆器であり、この器は優秀であるという。また彼らの祖は木地師でもあるという。あるいは、加賀の輪島も同様な成り立ちかもしれない。
 木地師と入山の地もととの関係は、概して冷たかったと思われる。山間の米を生産しない地区は、「樽木」といって年貢を木で納める天領が多かった。大鹿村や木曽の山林が、そのようである。御樽木成山と呼ばれた。それ以外の山林でも地元の山人の既得権を侵す存在あった。その為か、地元には馴染まず、木地師は孤高の民であり、団結力だ強かったようだ。
・・・・・引用おわり (探 三州街道 より)

 この地に、轆轤をまわして木の食器をつくった杣人がいたかどうか、知らない。そして、彼らの氏名が、大蔵や大倉・小倉や小椋を名乗ったのかも知らない。彼らの墓地の墓碑にも、菊花の紋があるやも知れない。

 これらの証明は、この地に農民の乱が起こった時、風布の100戸の満たない地区から75人の乱への参加者があった事実から、家系の存続自体に無理があることから、調査はかなり困難だろう。だがどこかに痕跡は残っているかも知れない。数日前、姥宮神社の謂われを素通りしようとしたが、俄然、興味の湧く題材になってきている。

 南朝の皇子の可能性の方はすこし低い。建武の新政以降の南朝の資料は、かなりの量が残されており、その中に外秩父に関する資料は、見落としがなければ無いようだ。

前回ブログの後日談だが、菊花紋に気がついて、興味に火がついてしまったのだ。

それにしても、いろいろと不思議の多い所です。

 


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