ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

鹿塩川と北川露頭とかくれ里

2013-08-15 18:23:34 | 史跡

鹿塩川と北川露頭

 

  ・・鹿塩と北川、この文字に馴染んで知っている人は、地元以外では、かなり少ないと思う。

まず鹿塩・・・
この地区は大鹿村で、昔諏訪大社の神領で、諏訪神社の御調の動物の鹿が多く住んでいたため大鹿と名が付き、鹿は諏訪神社へのお供え物として貴重であったらしい。その地は、所々に塩泉が湧き、明治の頃に塩泉から塩を精製する工場も作られていた歴史もある。その場所は鹿塩(カジオ)と呼ばれ、この地区を流れる川を鹿塩(カジオ)川と呼んだ。
さらに大鹿村は、鹿塩地区と大河原地区に分かれる。この大河原地区からは、小渋川が流れ、やがて鹿塩川を合流し、天竜川へ流れ込む。この小渋川の上流の大河原地区の流れは、天竜川と逆行し、南から北へと流れる。これは、長谷を流れる三峰川も同様で、逆行する。天竜川は諏訪湖を源流に、浜松で太平洋に注ぐ大河で、北から南に貫流する。地図を開いた時、基本は、絶えず北が上を指す。この逆行は、ひとえに、中央構造線の存在に由来する。またこれは、地質学の領域であるが・・・


そして、大河原・・・
大鹿村大河原を有名にしているのは、南北朝時代の、後醍醐天皇の御子の宗良親王が、約四十年ぐらい、大鹿の大河原を本拠地にして、天皇から征東大将軍の称号を貰い、南朝勢力の指揮をした場所だからである。これが、大まかな鹿塩と大河原、・・大鹿の説明である。


北川はその、鹿塩の一部分である。そして、深山幽谷を文字通り風景にした地区である。
従って、この地名を認知している人は、地元を除けば、よほど歴史の好きな人と、地学・地質学の好事家に、昔は限られていた。

 

 ・・北川露頭説明板

最近この地区、大鹿の鹿塩の北川地区がかなり注目を浴びるようになってきているという。
それは、左右の地層帶がぶつかり合う地点、中央構造線の地層の断面がえぐり取られて、古代の姿を露出した、所謂”露頭”が、かなりのエネルギーを発生させているという。このエネルギーは、古い神社の大木の比ではない、凄まじさと言うが、まことに興味深い話で、ついつい体験を希望したくなる。この連中の類は、歴史の学徒でも地質学の学徒でもなさそうだ。おかげで、北川露頭の駐車場は時に満車になり、分杭峠から北川地区を走るR152線(秋葉街道)のこの区間が、国道でありながら二車線をとれない巾狭の道で、溢れた車が秋葉街道を塞ぎ、通行不能になることが度々あるようだ。従って、北川露頭見学者は、分杭の峠の駐車場で、マイクロバスへの乗り換えを強要されるそうだが、・・・本日は、何故か「フリーパス」。露頭の駐車場も、普通、軽の車が三台ぐらい・・・。

うす茶色に見えるのが領家変成帯の花崗岩、緑がかった青色に見えるのが三波川変成帯の緑色片岩

・・・地層帯のぶつかる部分は、砕かれて砂礫にになっています。・・圧力と熱が岩盤を砕いたのでしょうか・・

ここは、ゼロ磁場地帯に近いこともあり、パワースポットとしても有名

・・パワースポットの体験記です・・

・・断層上にいるととても体が温まりました。温泉に入っているわけではないですが、温泉に浸かったときのようなジンジン感が体を巡ります。不思議です。・・手にぶつぶつが出てきました。まるで高級霜降り牛のような色になりました。エネルギーの高い場所に行くとこのような現象がよく起こります。・・30分ほど滞在しましたが、体調がとても良くなりました。この間すれ違った方々は5グループだけです。とてもマイナーな北川露頭ですが、エネルギーのレベルはとても高いと感じました。また行ってみたいと思います。・・

・・・しかし、露頭に立ってみたが、自分にはよく分かりませんでした。

露頭の説明・・・これは、各説明文を要約したもので、当然受け売りです。
・領家変成帯の花崗岩と、三波川変成帯の緑色片岩の間が、地質境界の中央構造線です。暗色に見える地質境界の部分は、幅約1mの断層ガウジまたは断層各礫になっています。
・・領家変成帯は、中央構造線の内帯に接する変成岩帯である。高温低圧型の変成岩が分布する。これは、浜松市天竜区水窪の奥領家と言うところで発見されて名付けられたという。


・・三波川変成帯は、秩父の三波川の発見に由来すると言われる。この地層からは、恐竜の骨が発見されていることから、第四白亜紀から恐竜時代が始まったと見られる。神流川沿いの神流町の恐竜センターは、恐竜の骨と足跡の発見により作られたと聞きます。

よく化石が発見される地層は、この第四白亜紀からと言われます。

 

転記

三波川変成帯の岩石は、海洋プレートが沈む付近の地下15~30kmで変成作用を受けた低温高圧型の変成岩です。また領家変成帯の岩石は、海洋プレートが地下100km以上沈む付近でマグマが上昇し、高温で変成作用を受けた高温低圧型の変成岩です。ともに三波川変成帯と領家変成帯は、白亜紀に形成された対の変成帯です。 このように、両変成帯の岩石は、水平距離で60km以上、深さの差で5~20kmkm、離れたところにありました。

 

鹿塩川・・・ ・・ふだんは、穏やかな川で、ヤマメやイワナや鮎が沢山いそうです。しかし塩分を含んだ水質かどうかは、分かりません。たぶん、あまりにも薄められて、検出できないのでは、と思います。

鹿塩川は、まさにその中央構造線の真上、ライン上を流れる川です。先に見たように、地層帯のぶつかり合うラインは、何故か岩盤が粉砕されて礫になり、弱そうです。流れが穏やかの時はまだしも、台風や梅雨時は水嵩を増し、急流となりそうです。それも時を重ねれば、、岸壁を削り、谷を深くえぐっていきそうです。そのために、露頭を顕す場所も多くなりそうです。・・・そういえば大鹿村の違う箇所で、最近また、露頭が発見されたそうです・・中央構造線安康(あんこう)露頭

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  S36災害の時、この北川地区に大洪水と土砂崩れが襲いました。

・・・・・写真は、その時の土砂崩れの、爪痕の風景です。場所は、北川露頭のある、まさに山麓上部に当たります。

三六災害・・・・・ 多いときには110戸もの家があったというが、昭和36年の災害(三六災害)当時は39戸だった。三六災害時には、村人は集団キャンプをして救助を待った。1.5km程北に中央構造線の北川露頭がある。・・北川分校 鹿塩小学校北川分校は、土石流に襲われ、いち早く破壊されてしまった。一方、大花沢からの土石流で鹿塩川の河床が上昇し、川沿いの民家は土砂に埋没してしまった。分校は1962(昭和37)年に閉校。北川集落はこの水害を機に、1963(昭和38)年に廃村となった。

 

神社跡   神社の祠の中に、閻魔さまでしょうか?・・・

 

  色んな石碑、下伊那農業高校分校の文字も見えます。

 

かくれ里・・・木地師の村

軽トラでやってきた、農家の夫婦と話をしました。蜜蜂の箱らしきを二つもっています。花の多い所において、蜜をとるのでしょう。かってあったという、北川集落のことを聞いてみました。S36災害で、北川集落は、壊滅的損害を受けて、集落全員が集落を去ったと言います。S36災害の時、この集落は、深山幽谷の奥地でかなり離れており、人里の天竜川流域も被害甚大なこともあり、着の身着のままで集団キャンプし、食料もなく、約一週間救援を待ったと言います。いままでの居住地も土砂崩れで埋まり、木地師の生業のろくろも家も失い、やがて全員がこの地を去ったと伝えられています。

北川露頭の駐車場の所が、木地師の大蔵家の跡地と教えてくれました。ようやく宅地の跡の石垣のみを幾つか残しています。

              

 

下の沢に、人間の手による石の積み替えの痕跡が見えます。どうやら水車小屋の跡に見えます。木地師ですから、水車を使って、ろくろを回していたようです。

 

 昭和三六年  長野県下伊那郡大鹿村鹿塩字北川大字柄山 ・・・この住所は、確かに存在した。

いま、柄山の人々はこの地を去り、地図の上から、柄山の地名が消えてしまった。 ・・・ご冥福を

 

 

 

 



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