ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

「・・・奈緒」と・小平物語

2018-05-28 19:17:20 | ひとりごと

「・・・奈緒」と・小平物語


小平奈緒は、旬な話題の人・・「オリンピックのゴールドメダリスト・スピードスケート選手」。
何故あんなに強いのか!・なぜあんなにストイックなのか!なぜ氷上の詩人と呼ばれているのか?などなど・・・は、興味はあるのだが、僕の関心の範疇から外して他に任せておこうと思っている。
しかし、とりわけて気になている「文武両道」の意識、、それも選択肢の一義の優先の強烈さを、何故かと問わずにはいられない。もちろん「文武」の武は旧来の武道の「武」ではなく、今日的な「スポーツ」という意味に置き換えて考えているのだが・・あるいは旧来の武道の魂を、脈々と受け継いでいたのかもしれぬ・・という旧家の伝統があったかも知れぬという・・まさかの話である。


「小平物語」という古書がある。
この本は、信玄が甲斐の国を膨張し、信野の諏訪や伊那に攻め入った初期の頃の、信濃の豪族・小平氏の戦記物語である。信玄の戦争の真実は、甲陽軍鑑などの筋が信濃側の反証があってこそ担保されるもので、「小平物語」はその第一義であるという。

「小平物語」には、一族の起源と経緯・戦記が描かれている。

---- そもそも、我らが先祖は当国 (信濃国)佐久郡の住人 望月城主 左衛門尉信永 と申すなり。同国 平賀四郎義信 末孫なり。
祖父は信永三男 源三郎信正。道三、是なり。末流の小平を相続す。
それ以前より数代、諏訪に居住す。-----


◇:信濃・甲斐源氏の平賀氏は、信濃佐久地方の有力な豪族であった。佐久地方は、平安期に有力な「牧」(=官製牧場)をいくつも抱えていた。平賀氏は、その有力な「牧」の牧監を足掛かりに、佐久に勢力を築いていたらしい。この平賀氏の武力の証としては、頼朝葬儀の時、「源氏門葉として御家人筆頭の座」にあったことが吾妻鑑に記されており、また北条時政に潰されたが、頼朝後の幕府の政権の座に名乗りを上げたことも、状況証拠として当時を詳らかにしそうである。少なくとも頼朝挙兵から承久の乱までの間は、武田・小笠原はもとより関東武家の筆頭の力を誇示していたのではないかと、・・資料は示している。
◇:平賀氏の没落の切っ掛けは、「頼朝の後釜を狙ったこと」とその後の「承久の乱」のとき、京都・朝廷側に与力して、結局負けたことが原因となった。承久の乱の後、小笠原が、その戦功褒賞で平賀を追い出して、小笠原長清の子息・伴野氏と大井氏を佐久に入れて、平賀氏の勢力を削いでいったとみてよい。
◇:小平氏は、・・「望月城主 左衛門尉信永 」であることが「小平物語」に記されている。そして、小平信永の祖父が、平賀信正であるという。ちなみに、佐久・望月は全国最優秀の牧場であったことが古書の各書から明かされている。

◇:望月を追われて落ちた先は・諏訪地方とあるが・「小平物語」の中に、南大塩:山浦とある。ここは、現在茅野市の地籍で、諏訪中央病院近くの山寄の場所で豊平とも言い、小平姓が集積しているところをみると一族であろうと推測するが、証があるわけでもなく、違うのかもしれないが、ここは深く調べることはしない。この小平一族の一部が、伊那・箕輪の小河内にも移り住み、そもそもののこの「小平物語」を記した。

「・・・奈緒」の出身地は、どうやら茅野市南大塩らしい。そして選んだ高校は伊那にあるという。
選んだ高校も、選んだ大学も、スポーツが盛んだということもなく、スケート部すらないという、スケート選手にとって最悪の環境のところで、敢て最悪を選んだのではなくて、「文武」の文を優先した意識がどこから来たものか、多少興味をそそられて、・・・あるいは出自の環境が影響あるのかもと思って調べてみたが・・あえてこれ以上の深堀は差し控える。

 

 

後記:40年の間隙があっても、学び舎を共にしたかもしれない、と根拠のない仲間意識があって・愛おしく


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