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ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

高遠そばと更級そば  保科家とは  ・・・雑談記

2013-08-09 19:01:38 | グルメ

高遠そばと更級そば   ・・・雑談記

                   高遠そば・・・ 転記1

                      転記2

一昔前より、”そば好き”の間で有名になり、少しずつ復権している”そば”がある。”そば通”が会津で食し、独特な風味で好評を得、各地に広まりつつある”高遠そば”のことである。会津で高遠の名は、歴史に関心のある方なら、直ぐに想像されようが、会津松平藩二十三万石の初代藩主は、三代将軍家光の弟保科正之公であり、保科正之は、信州高遠の食文化を、”高遠以来”の家臣とともに会津に連れてきたようである。
その高遠そばは、大根おろしの絞り汁にそばつゆを割って、焼き味噌を溶かして、大根おろしと玉葱を薬味にして食べる盛りそばだそうだ。この大根は、辛み大根で、通常の煮物や漬け物には適さないらしい。玉葱の薬味は、長ネギに置き換えられ処もあるという。
高遠そばのルーツの高遠では、この大根そばの食文化は、途絶えていたと聞く。最近の人気で、会津からの逆輸入で、少しずつ復活させているそば屋があるとも聞く。高遠そばのもっと前のルーツは・・・行者そばと言うらしい。行者そばは、奈良時代のはじめ修験道の開祖と言われる「役小角(えんのこずね)」が、木曽駒ヶ岳で修行の折り、木曽駒の登山道の一つ黒川林道の途中にある「内の萱」の里人に篤いもてなしを受けたお礼に渡したそばの種が伝承で今日に至っていると聞く。・・・「行者は、常備食としてそばを持ち歩いていました。行者の修行の中には五穀を食べない五穀断ちがあるのです、がそばは五穀に入らないのです。またそばの粉は、火を使わなくても食べられるので、行者の常備食としては最適であった・・・というわけで。保科家が高遠の領主になるずっと昔、木曽駒を含む木曽の領地は、木曾義仲の末裔が治めており、木曽家の隆盛期には、高遠も木曽家の領分でした。その頃、高遠そばの食文化は、高遠に根付いたものと思われます。

*会津のそば処で、高遠そばの名店を紹介してくれてるコメントが届いています。参考にどうぞ!

 

 

            更級そば・・・ 転記3

            転記4

                                                  飯野藩の陣屋は、富津市下飯野


会津藩の藩主保科正之は、将軍家光の弟と言うことで、家光から”松平”を名乗るように勧められたそうです。正之は義理堅く律儀な人で、養父に保科正光に育てられた恩義から、”松平”の姓を名乗ることを断りました。しかし、徳川家の親藩第一、御三家に次ぐ第四親戚筋ということで、会津藩四代目から”松平”を名乗ることになりました。そこで、名門の”保科”の名が途絶えて消えることを惜しんだ末、養父保科正光の弟、祖父正直の子の正貞に、飯野藩を創設して保科家を継がせました。この正貞は、父を保科正直、母を家康の妹の多劫姫とします。その保科飯野藩の正貞のもとへ、信州保科の里から、衣料用の布地を商いに来る者がいました。場所は、木更津の飯野藩か飯野藩の江戸屋敷かは、調べても分かりません。恐らく両方のような気がします。この布地は、絹か麻の様な気がしますが、飯野藩江戸屋敷は、麻布にあったところを見ると、麻の方が理屈に合いそうです。この布地の商人は、正貞や飯野藩の家臣と懇意になると、商いが終わると、そばを自分で打ち、振る舞ったと言います。正貞から七代目の藩主は、このそばが大変好きで、そばの店を出すように勧めたと言います。資金援助もあったのかもしれません。そばの希少な一番粉(粗挽きでそばの実の芯(胚乳)が割れたものを細かく篩った白く細かい粉)が主体のさらしな粉と小麦粉(江戸時代は蕎麦粉よりも高価)の混合粉を湯捏ねした白い蕎麦で、かなり上等な食べ物だったようです。これが、江戸における更級そばの由来です。木更津で、古い更級そばの店を探したが、見つかりません。あったのに潰れたか、元々無かったか、分かりませんが、江戸では今も存続しています。店の名は、昔の商いから布屋を付け、更に明治に堀井を苗字としたと聞きます。「信州更科蕎麦処布屋太兵衛」・・・この名前のまま営業しているかどうか、気になります。

 

・・・麻布の名前・・・

阿佐布、安座部といわれた古い集落が始まりだったようです。初めて歴史に記録されたのは意外に新しく、永禄2年(1559)と言われています。その後、元禄時代(1688~)ころから今の「麻布」が使われるようになったようです。多分このあたりで麻の布を作っていたのでしょう。
アイヌ語のアサップル(向こう側へ渡る?)を語源と言う方もいるようですが定かではありません。古く縄文までさかのぼって考えるより、むしろ単純に 鎌倉時代か 室町時代、或いは江戸時代 のころ この辺りで麻を作っていたと考えた方がいいのかもしれません。・・・麻布の地名考より

・・・これを読むと、そば屋の堀井家(明治に苗字を許されてから)が布地を商っていたのが、たまたま麻布だったという、偶然で、深読みの勇み足と言うところでしょうか・・・

 

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1 コメント

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会津の蕎麦 ()
2013-08-10 15:43:02
始めて会津で高遠蕎麦を食べた時、なぜ高遠そばと呼ぶのかわかりませんでした。会津の歴史を知るうちに納得しました。歴史的考察は庄次郎さんにお任せすることにして、私は会津の蕎麦処をご紹介しましょう!
会津で最も有名な蕎麦屋は「桐屋権現そば」でしょう!あまり有名になり過ぎて観光バスまで停まる始末、こうなってくると行く気がしなくなります。高遠そばがおいしかったのは「徳一」という蕎麦や。徳一とは有名な和尚の名ですが、ここは庄次郎さんの考察に任せます。
会津市内には他に「古川端」「和田」などがしっかりした手打ちを出してくれます。
会津七日町には「きよ彦」という蕎麦やがあり、ここは着物デザイナーのきよ彦がプロデユースした店とか。高遠蕎麦はどこの店でもやっているわけではないようです。
会津の蕎麦といえば会津山都の蕎麦をわすれてはなりません。蕎麦で村おこしをした村だ。
「とのや」「蕎邑」「やまびこ」などが有名。
最近の八重の桜ブームも相俟って会津地方は随分観光客も増えているようです。蕎麦やも知らない店が雨後の竹の子のようにでてきて、
私の蕎麦屋めぐりも追いつけなくなってしまいました。(ちなみに山形の蕎麦屋はすごく多彩です)(信州の蕎麦は絶品です。) 蕎麦と聞いてついコメントしてしまいました。               蕎麦好き 裕
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