浦和:大崎・国昌寺・山門
”開かずの山門"の”龍” ・・・
◇ 逸話 ◇
昔、御沼という大きな湖があった。
時に、御沼は洪水をおこして、御沼の周辺を災害した。
住民は、これを”水怒り”と呼んで恐れた。
・・・ 住民と寺の和尚は、御沼の龍神が怒って暴れていると信じた ・・・
・・・ 住民と和尚は、当時江戸で有名だった”龍の彫師”に頼んだ ・・・
・・・ そしてできたのが、山門・欄干の”龍”であった ・・・
・・・ 以後、山門の龍を慰撫し、供養して時を過ごした。
寺は、付近の住民の菩提寺であった。
葬儀あった後、埋葬のため遺体を山門から墓地に運んで埋葬したという。
翌日に、埋葬は掘り起こされていて、遺体は、影も形もなくなっていたという。
・・・ 誰が言うともなく、龍が山門から離れて、遺体を食らった、という噂が流れた。
・・・ 彫師に相談すると、龍の彫り物を欄干に釘付けにして、山門を閉じた。
以来、その寺の山門は、”開かずの門”になった。
・・ 御沼は、いま見沼と呼ばれている
・・ 彫師の名は、左甚五郎
・・ 寺の名は、大崎山国昌寺
・・ 時代は、江戸初期・家康から家光の時代か?
左甚五郎・
左 甚五郎:江戸時代初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人。
・・講談では地元の大工に腕の良さを妬まれて右腕を失い、また、左利きのために左の姓になった説もある。
・・日光東照宮の眠り猫が有名。
伝承と関連する逸話
1:足利家臣・伊丹左近尉正利を父として、文禄3年(1594年)に播磨国明石に生まれた。
2:父親の亡き後、叔父である飛騨高山藩士・河合忠左衛門宅に寄寓。
3:慶長11年(1606年)、京伏見禁裏大工棟梁・遊左法橋与平次の弟子となった。
4:元和5年(1619年)に江戸へ下り、将軍家大工頭・甲良宗広の女婿となり、堂宮大工棟梁として名を上げた。
・江戸城改築に参画し、西の丸地下道の秘密計画保持のために襲われたが、
逃げて、老中・土井利勝の女婿で讃岐高松藩主・生駒高俊のもとに亡命。
・その後京都に戻り、師の名を継いで禁裏大工棟梁を拝命、法橋の官位を得た。
・高松藩の客文頭領となったが、慶安4年頃に逝去。
有名作品:眠り猫(日光東照宮)/閼伽井屋の龍(園城寺)/鯉山の鯉(京都の祇園祭)など
・日光東照宮(栃木県日光市) - 眠り猫*
・妻沼聖天山 歓喜院(埼玉県熊谷市) - 本殿 「鷲と猿」
・秩父神社(埼玉県秩父市) - 子宝・子育ての虎、つなぎの龍*
・泉福寺(埼玉県桶川市) - 正門の竜
・安楽寺(埼玉県比企郡吉見町) - 野あらしの虎*
・慈光寺(埼玉県比企郡ときがわ町) - 夜荒らしの名馬*
・国昌寺(埼玉県さいたま市緑区大崎)*
・上野東照宮(東京都台東区) - 唐門 「昇り龍」、「降り龍」
数ある作品の一部は、年代、作風、彼の行動範囲などから、彼の作品ではないものもあるという。私が見たのは*印の作品・
・左甚五郎は、将軍家大工頭・甲良宗広の女婿、立場は弟子として将軍家の神社建築を任された甲良家の差配に従ったので、日光東照宮や秩父神社の造営に携わったわけであるが、この甲良の神社建築の様式は、個人的には好きでない。
・左甚五郎が、将軍家の関わりの神社建築に携わって名声を博したのは事実のようで、実在の動物の”彫刻”はまるで生きているようであったという。
・「まるで生きているようであった」という伝説が、講談や落語で脚色化されて、伝説として伝承された。
・武蔵野に作品が多いのは、将軍家大工頭・甲良宗広の家門にいたからと思われる。