ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

秋川の「伊奈」地名由来

2018-12-21 11:17:17 | 歴史

秋川の「伊奈」地名由来

高校Å組同級会・12/4

思えば、古希を過ぎている。
田舎の高校の、同級の輩と、最近同級会を重ねている。つまり・・
名所・旧跡を若干散歩した後
  ・・市ヶ谷で「飲み会」をして散会という件がほぼの内容・・
  散策の場所は、提案があることもあれば、幹事が決めることもあるわけで・・
  若干軽い場所もあれば、重い場所もある訳で・・
  市ヶ谷は、数人の大学時代の馴染みのようで、、
  各人の今の住まいからほほセンターらしくて、皆に不満はない。


  
12/4:皇居の中:乾どおり:紅葉狩り散策の折・・
・まじまじと皇居:江戸城の石垣を見た。
 ----- 夥しい数の石垣の石とところどころの石の大きさ・
 しばらくして、守屋の石工のことが頭に浮かんだ。


 
秋川の「伊奈」地名由来
 
多摩の奥に、秋川という川がある。多摩川の支流である。


支流と本流が合流する地点を昔から「落合」というのだが、そこが今は「あきる野市」というらしい。「あきる野」の由来は、「秋留」からとったが「阿伎留神社」が鎮座する。
「あきる野市」は秋川に沿って存在し、上流部は五日市、下流部は秋川に分けられ、その中間部に
「阿伎留神社」が鎮座する訳で・・

戦国時代・・信玄が死んで、子息・勝頼が跡を継いだ甲信国・・勝頼の居城は高遠城であった。勝頼は、信玄の西進の意を継いで、信長・家康連合に戦いを挑んで、奥三河・長篠の合戦に敗れた。その後、織田・徳川軍の来襲に備えて領国に戦費の負担を強いたといわれる。
時に、高遠・藤沢地区の片倉・松倉はほとんど水田を持たない場所で、過酷な徴税は生活の破綻に直結する。ここの村民は、生活の糧として石工の技術を持っていたものが多かった。かつ、時々出稼ぎとして、墓石や神社の灯篭などを作りに遠方に出かけることも多かった。
武田勝頼時代後期、先の地域の住民はほとんどが逃散していなくなったのである。
武田・織豊の時代が終わり、徳川の時代になると、保科正俊と正直親子が高遠を奪還し、片倉・松倉の旧村民を慰撫しながら村に戻したが、一部は逃散先に移住したものもあった。
その一部が、武蔵・秋川渓谷の伊奈であった。

彼らが、秋川谷を選んだのは、この川の渓谷が”豊富な石材”の宝庫だったからである。現在この川を有名にしているのは、清冽な谷川と風景とキャンプ場であり、都民の四季折々の憩いの場所である。とくに夏場の「秋川河原のキャンプ」は好評である。
高遠・藤沢の片倉・松倉の石工は、ここを終の棲家と定めて、石工の生業を始めたという記録が残っている。
この秋川の石材は、砂岩であった故、彫刻には極めて適していたのだが、砂岩質のため”風化”に弱かった。

      

織田信長が、本能寺で横死すると、弔い合戦を仕掛けた秀吉が勝利を収めた。豊臣時代になると各豪族に支持を持つ”家康”を、自分の領国近在におくと危険だと感じた秀吉は、家康の五国太守から関東・江戸に移封を命じた。当時の関東は荒野が多く、多くの収穫は見込めず、五国より低い生産力であったが、開拓すれば倍から3倍の生産余力を確信した家康は、江戸に入府したのだった。
家康とともに、関東に随伴した親藩は、道灌の江戸城を改築したのだった。

江戸城の石垣には、風化に脆い「秋川の石材」は使われなく、主に「伊豆稲取の石」が海上輸送されて使われた。
「家康時代」に、多胡姫を徳川家から貰っていた保科正直は、どうやら「高遠石工集団」を率いて、江戸城の石垣の加工技術の方で貢献したらしい。その時に、秋川・伊奈の石工は、もとは「高遠石工」でもあり、親戚縁者も多く、正直の配下として扱われた。
江戸城築城の後、「高遠石工集団」は、高遠へ戻ったものもあり、石工の技術を見込まれ、各地に散って定住したものも合った。

 

秋川の石工は、砂岩の脆さから風化が激しく、やがて”生業”としては成り立たなくなり、石工は農家に転業して土着したという記録が残る。
僅かに「石工」の痕跡のある「伊奈」という地名を残して・・

 


今は、五日市街道と呼ぶらしいが、街道が整備された当初は、「伊奈街道」という呼び名であったらしい。江戸城の石垣が崩れたときの修理の石材として、秋川・伊奈から江戸城までのルートである。石工集団として、保科正直配下であった高遠・秋川石工衆は、江戸城完成とともに解散し、秋川石工衆は、八王寺の大久保長安の支配下になって江戸城修復の任を担ったようだ。「伊奈街道」はその時の名残で、やがて修復の役目を終えると、五日市の炭や薪の運搬ルートになっていった。江戸の町の、まさに「ライフライン」を任された訳である。以来・・「伊奈街道」は「五日市街道」に名前を替え、五日市は、炭や薪や農産物の市で、大いに賑わったという。
時がたち、燃料や暖房は、・・・石油と電気に変わり・・「五日市街道」もかっての役目を終える。

 

伊奈(伊那)は、高校同級会の出身の高校のあるところ・・
名前に懐かしさを覚える・
伊奈備前にゆかりの地名もあれば、伊那地方本来にゆかりの地名もありで・・

写真・絵図面は「あきる野市広報」から

 


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