迷走とか朝令暮改とかいわれる麻生政権の政策。
どこに向かおうとしているのかまったくわからない。
国民も馬鹿ではない。内閣支持率は急落した。
しかもこれは一時的低下ではない。本質的に見放された結果だ。
景気を回復しよう?
それは誤りだ。
目指すべきは適正レベルでの経済の安定だ。
かつて日本のバブルがはじけ、その後昨今の安定に結びついたように、行き過ぎた消費経済が改められる局面は必ず訪れるものだ。
今は世界的な金融バブルが崩壊した中にあって、海外に依存性の高い日本だけが景気回復することは考えられない。
かつて日本には一億層中流意識に支えられたおおらかな社会があった。
これを幸いとばかり国益を忘れ腐敗していった官僚と政治家によって不況下でも既得権益に走る官製法人や企業経営者らの利益が優先され、大きな声を出せないばらばらの国民は切り捨てられ続けた。
では、それで国は豊かになったのか?
欧米流にいえばそうだと言えるのかもしれない。
しかし日本人の求めるべき答えはそこにあるとは思えない。
仁徳天皇は竃の煙を見て庶民の暮らしぶりが悪い事を知るや都造りを中断し自身の家屋の雨漏りも修理せず庶民の負担を軽減するため免租し苦労を分かち合った。
その後数年し「たかきやに、のぼりてみれば、けむりたつ、たみのかまどは、にきはひにけり」と庶民の暮らし向きの回復に喜んで、いまだ風雨を凌ぐに不十分な自身の家屋敷にあって「朕既に富めり」「民富めり、朕何そ富まずと謂はんや」と我が事のように喜んだという。
時代が違うといっても我々は日本人としての伝統文化の上に今がある。
単一の宗教のない国にあって、国民を結びつけるルーツである。
この局面にあって当面政治がすべきは無駄遣いの奨励による経済振興ではない。
ましてや、弱者いじめの消費税増税や、いいわけじみたお金のばら撒きでもない。
まったく逆だ。
贅沢品には高い課税、所得には累進課税の強化をもってセーフティネットの整備を図るべき時期である。
善政には国民も応えるもの。
仁徳天皇の都造りは民の側から声が挙がって再開されたという。
まつりごとはかくあってこそ信頼されるのではないのか。
考え方はいろいろあるだろう。ただ、この国のあり方をどう描いているのかを示した上で国民の選択を受け政策は講じられるべきである。それを欠き、いたずらにときを過ごすのは、あまりに怠慢・無責任というものだ。