前にも書きましたが、本書、個人的にとても評価の高い作品です
山本周五郎作品は父親が好きだったこともあり、小学校高学年頃からちらちら読んでいました。
「武家もの」「人情もの」の時代小説短編が代表的な作品ということになるんでしょうが、長編もNHKの大河ドラマになった「樅の木は残った」や、連作短編になるかと思いますが黒澤明が映画化した「赤ひげ診療譚」などもそれなりにポピュラーです。
他、黒澤明監督の「椿三十郎」の原作が「日々平安」、最近でも2000年に「雨あがる」が映画化されたりと多くの作品が映像化されています。
なお「赤ひげ診療譚」はとても好きで中学生から高校にかけて何度となく読み返しました、最近では10年前くらいに読み返したような....。
そんなこんなもあり「私的日本小説番付」では「赤ひげ診療譚」「大関」です。
以下「文学賞メッタ斬り!」の直後ということでその辺の話題です。
「山本周五郎」文学賞嫌いですべての賞を辞退していたようです。
直木賞(17回)も辞退しており、現在まで唯一の直木賞辞退者だそうです。
まったくの余談ですが...。
前述の関連で「直木賞受賞作」wikipediaで眺めていましたが一貫性がないように見えます。
作品に関わらず文壇の「中堅どころ」の大衆小説作家に授賞する賞と思えばある程度納得いくラインナップなのですが...。
・第85回(1981年上半期) - 青島幸男「人間万事塞翁が丙午」
・第86回(1981年下半期) - つかこうへい「蒲田行進曲」
「ベストセラー」でしょうが....「作家」としてはどうだったんでしょう?。
この辺に受賞させるなら筒井康隆あたりに受賞させてもと思うのですが....。
その一方で当時20代で「大衆小説作家」と思えない山田詠美(第97回(1987年上半期)「ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー」)が受賞しています。
山本周五郎賞の方は第1回の山田太一「異人たちとの夏」がちょっと「???」ですが受賞者・受賞作のラインナップ見ると一貫性があるように見えます。(全体的にミステリー色かなり薄め、SF色は皆無なのは残念ですが...)
第7回(1994年)の久世光彦「1934年冬-乱歩冬」などはTVライターの久世氏ですが渋い作品です....。
そもそも文学賞嫌いだった人の名前を「わざわざかぶせる」いうのもどうかというのもありますが....。
さて本書、1964年6月-66年1月まで週刊新潮に連載されていた作品。
1967年2月に著者は亡くなっていますので最後の長編作品となります。
解説にもありますが「集大成」といってよい作品であり、精神の「自伝」ともいうべき「思い」をありったけたたきこんだ作品です。
私が本書を初めて読んだのは20代中盤から終わりくらい(20年くらい前)かと思います。
典型的なビルディングスロマンなのですが当時の私には響くものがあり本作品が私の中の一部に今でも確実に残っているのではないかと思っています。
良くも悪くも「思い」が過剰気味に入り込んでいる作品ですので好き嫌い分かれるかもしれません。
私も「小説」として客観的に評価すると「赤ひげ診療譚」の方が上だと思っていますが、不思議な魅力のある作品で折につけ読み返したり、人に勧めてきたりしています。
最近勢いで会社の若者に本書勧めてしまったので改めて読み返しました。(10年ぶり)
読んだのは手持ちの新潮文庫 旧版です。
内容紹介(裏表紙記載)
上巻:
徒士組という下級武士の子に生まれた小三郎は、八歳の時に偶然経験した屈辱的な事件に深く憤り、人間として目ざめる。学問と武芸にはげむことでその屈辱をはねかえそうとした小三郎は、成長して名を三浦主水正と改め、藩中でも異例の抜擢をうける。若き主君、飛騨守昌治が計画した大堰堤工事の責任者として、主水正は、さまざまな妨害にもめげず工事の完成をめざす。
下巻:
異例の出世をした主水正に対する藩内の風当たりは強く、心血をそそいだ堰堤工事は中止されてしまうが、それが実は、藩主継承をめぐる争いに根ざしたものであることを知る。”人生”というながい坂を人間らしさを求めて、苦しみながらも一歩一歩踏みしめていく一人の男の孤独で厳しい半生を描いた本書は、山本周五郎の最後の長編小説であり、周五郎文学の到達点を示す作品である。
今回の再読も「巻を措く能わず」で一気に読んでしまいました。
特に前半の主人公が勉励刻苦を重ね成長、成功していく部分は読みやすいので速かった....。
あらためて自分が「ベタな成長小説」好きなんだなぁと認識しました。
(三浦綾子の「泥流地帯」などもこのパターン???)
一方で私的には「山本周五郎は永遠」なイメージがあったのですが、今回読み直して「さすがに古いかなぁ」と感じる部分はありました。
江戸時代的(戦前的?)価値観、道徳観が前提となっているんですが、特に「女性観」などは今の時代と相いれないかなぁと感じました。
また「殿様」に対する盲目的「忠義」、硬直的身分制度などもなにも説明なく「すー」っとは入っていきにくいかもしれません。
(会社の若者からもそんな感想....)
説教くさいのもどう受け止められるか....価値観を押しつけているわけではないんですけどね。
その他、今回読み直して改めて思ったこと。
前から思っていましたが「善悪」「正しい・正しくない」は「見方と立場の問題」がテーマ。
主水正及び藩主と対立する側も一生懸命やっているので....。
価値感の相対化なわけですが…これがひたすら繰り返されます。
飽きる人は飽きるかもしれません...。
これまた「人間とは?」をびたび自問していますが...まぁ答えはないですよねぇ、これまたしつこく繰り返されます。
連載小説ベースなので「連載しているうちに都合が変わったのかなぁ」という感じで内容がつながっていないところがある。
代表例は冒頭出てくる江戸からきた信田氏、結局ほとんど登場せず終わっています。
事件に対して主人公の視点と「別の動きがある」というようにしたかったんじゃないかと思うのですがまぁ真意は謎ですね。
ただ主水正が城代家老になる、滝沢兵部が堕ちた上で最後に救済される。
「つると主水正は結ばれる」辺りの設定は書き出しから決まっていたのかなぁという気がします。
ただ滝沢兵部は救済されるか???なまで堕ちるわけですが...最後の救済はちょっと書き込み甘いかなぁと感じました。
作者も最後の最後迷ったのかもしれません。
その一方で最初小三郎の「師」として「凛」としていた谷宗岳の壊れっぷりは見事です。
上巻で死んでしまうかなぁとか持ち直しそうな感じもあったのに...。
こちらの方は当初の想定になく、筆の流れで壊してしまったのかなぁという感じです。
人間壊れると持ち直せないというのを滝沢兵部と対応して表現したかったんですかねぇ。
小三郎=主水正も老いれば変わる可能性もあることの暗喩でしょうか...。
師筋の米村青淵、小出方正も巻を追うごとに衰えてますし...。
その辺の師匠に対する態度も冷たい主水正ですが、肉親に対する「冷たさ」は異様だなぁ...と感じました友人・妻(愛人)にもそれなりに冷たいのですが肉親=親・弟に対する冷たさはすごい。
儒教道徳としては「忠」とならぶ「孝」の部分まったく欠落しています。
立身出世しても情に流されないためには必要な冷たさかもしれないのでしょうかねぇ。
または「完璧」な人間などいないということでしょうか?
もしくは山本周五郎自身「肉親」と何か葛藤があったのでしょうか?
主水正の妻「つる」の見事なツンデレぶりは相変わらずよかった...。
下巻の重めな展開を明るくしています、こちらは随所に伏線はっていましたし。
エンターテインメント的には、藩主の謎をミステリータッチで解いていくという面もありますが、これまた今どきの人にはピンとこないだろうなぁ。
江戸時代でも藩は「血」ではなく、結び付けられた「縁」でつながるイメージなのでここまで「血」の部分には違和感なかったんじゃないかなぁとも思いますし。
等々いろいろ書きましたがいろいろ考えさせられる小説であることは間違いなく、また10年位後に読み返すことになると思います。
最後に。
冒頭、先代城代家老の滝沢主殿のことばとして紹介される「正しいだけがいつも美しいとはいえない、義であることが常に善ではない」まぁ当たり前といえば当たり前の言葉なのですがこれをどう受け取るかは人それぞれですね...。
↓中高…でなく忠孝、チュー公…日本語難しいですねぇ???よろしければ下のバナークリックいただけるとありがたいです!!!コメントも歓迎です。
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山本周五郎作品は父親が好きだったこともあり、小学校高学年頃からちらちら読んでいました。
「武家もの」「人情もの」の時代小説短編が代表的な作品ということになるんでしょうが、長編もNHKの大河ドラマになった「樅の木は残った」や、連作短編になるかと思いますが黒澤明が映画化した「赤ひげ診療譚」などもそれなりにポピュラーです。
他、黒澤明監督の「椿三十郎」の原作が「日々平安」、最近でも2000年に「雨あがる」が映画化されたりと多くの作品が映像化されています。
なお「赤ひげ診療譚」はとても好きで中学生から高校にかけて何度となく読み返しました、最近では10年前くらいに読み返したような....。
そんなこんなもあり「私的日本小説番付」では「赤ひげ診療譚」「大関」です。
以下「文学賞メッタ斬り!」の直後ということでその辺の話題です。
「山本周五郎」文学賞嫌いですべての賞を辞退していたようです。
直木賞(17回)も辞退しており、現在まで唯一の直木賞辞退者だそうです。
まったくの余談ですが...。
前述の関連で「直木賞受賞作」wikipediaで眺めていましたが一貫性がないように見えます。
作品に関わらず文壇の「中堅どころ」の大衆小説作家に授賞する賞と思えばある程度納得いくラインナップなのですが...。
・第85回(1981年上半期) - 青島幸男「人間万事塞翁が丙午」
・第86回(1981年下半期) - つかこうへい「蒲田行進曲」
「ベストセラー」でしょうが....「作家」としてはどうだったんでしょう?。
この辺に受賞させるなら筒井康隆あたりに受賞させてもと思うのですが....。
その一方で当時20代で「大衆小説作家」と思えない山田詠美(第97回(1987年上半期)「ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー」)が受賞しています。
山本周五郎賞の方は第1回の山田太一「異人たちとの夏」がちょっと「???」ですが受賞者・受賞作のラインナップ見ると一貫性があるように見えます。(全体的にミステリー色かなり薄め、SF色は皆無なのは残念ですが...)
第7回(1994年)の久世光彦「1934年冬-乱歩冬」などはTVライターの久世氏ですが渋い作品です....。
そもそも文学賞嫌いだった人の名前を「わざわざかぶせる」いうのもどうかというのもありますが....。
さて本書、1964年6月-66年1月まで週刊新潮に連載されていた作品。
1967年2月に著者は亡くなっていますので最後の長編作品となります。
解説にもありますが「集大成」といってよい作品であり、精神の「自伝」ともいうべき「思い」をありったけたたきこんだ作品です。
私が本書を初めて読んだのは20代中盤から終わりくらい(20年くらい前)かと思います。
典型的なビルディングスロマンなのですが当時の私には響くものがあり本作品が私の中の一部に今でも確実に残っているのではないかと思っています。
良くも悪くも「思い」が過剰気味に入り込んでいる作品ですので好き嫌い分かれるかもしれません。
私も「小説」として客観的に評価すると「赤ひげ診療譚」の方が上だと思っていますが、不思議な魅力のある作品で折につけ読み返したり、人に勧めてきたりしています。
最近勢いで会社の若者に本書勧めてしまったので改めて読み返しました。(10年ぶり)
読んだのは手持ちの新潮文庫 旧版です。
内容紹介(裏表紙記載)
上巻:
徒士組という下級武士の子に生まれた小三郎は、八歳の時に偶然経験した屈辱的な事件に深く憤り、人間として目ざめる。学問と武芸にはげむことでその屈辱をはねかえそうとした小三郎は、成長して名を三浦主水正と改め、藩中でも異例の抜擢をうける。若き主君、飛騨守昌治が計画した大堰堤工事の責任者として、主水正は、さまざまな妨害にもめげず工事の完成をめざす。
下巻:
異例の出世をした主水正に対する藩内の風当たりは強く、心血をそそいだ堰堤工事は中止されてしまうが、それが実は、藩主継承をめぐる争いに根ざしたものであることを知る。”人生”というながい坂を人間らしさを求めて、苦しみながらも一歩一歩踏みしめていく一人の男の孤独で厳しい半生を描いた本書は、山本周五郎の最後の長編小説であり、周五郎文学の到達点を示す作品である。
今回の再読も「巻を措く能わず」で一気に読んでしまいました。
特に前半の主人公が勉励刻苦を重ね成長、成功していく部分は読みやすいので速かった....。
あらためて自分が「ベタな成長小説」好きなんだなぁと認識しました。
(三浦綾子の「泥流地帯」などもこのパターン???)
一方で私的には「山本周五郎は永遠」なイメージがあったのですが、今回読み直して「さすがに古いかなぁ」と感じる部分はありました。
江戸時代的(戦前的?)価値観、道徳観が前提となっているんですが、特に「女性観」などは今の時代と相いれないかなぁと感じました。
また「殿様」に対する盲目的「忠義」、硬直的身分制度などもなにも説明なく「すー」っとは入っていきにくいかもしれません。
(会社の若者からもそんな感想....)
説教くさいのもどう受け止められるか....価値観を押しつけているわけではないんですけどね。
その他、今回読み直して改めて思ったこと。
前から思っていましたが「善悪」「正しい・正しくない」は「見方と立場の問題」がテーマ。
主水正及び藩主と対立する側も一生懸命やっているので....。
価値感の相対化なわけですが…これがひたすら繰り返されます。
飽きる人は飽きるかもしれません...。
これまた「人間とは?」をびたび自問していますが...まぁ答えはないですよねぇ、これまたしつこく繰り返されます。
連載小説ベースなので「連載しているうちに都合が変わったのかなぁ」という感じで内容がつながっていないところがある。
代表例は冒頭出てくる江戸からきた信田氏、結局ほとんど登場せず終わっています。
事件に対して主人公の視点と「別の動きがある」というようにしたかったんじゃないかと思うのですがまぁ真意は謎ですね。
ただ主水正が城代家老になる、滝沢兵部が堕ちた上で最後に救済される。
「つると主水正は結ばれる」辺りの設定は書き出しから決まっていたのかなぁという気がします。
ただ滝沢兵部は救済されるか???なまで堕ちるわけですが...最後の救済はちょっと書き込み甘いかなぁと感じました。
作者も最後の最後迷ったのかもしれません。
その一方で最初小三郎の「師」として「凛」としていた谷宗岳の壊れっぷりは見事です。
上巻で死んでしまうかなぁとか持ち直しそうな感じもあったのに...。
こちらの方は当初の想定になく、筆の流れで壊してしまったのかなぁという感じです。
人間壊れると持ち直せないというのを滝沢兵部と対応して表現したかったんですかねぇ。
小三郎=主水正も老いれば変わる可能性もあることの暗喩でしょうか...。
師筋の米村青淵、小出方正も巻を追うごとに衰えてますし...。
その辺の師匠に対する態度も冷たい主水正ですが、肉親に対する「冷たさ」は異様だなぁ...と感じました友人・妻(愛人)にもそれなりに冷たいのですが肉親=親・弟に対する冷たさはすごい。
儒教道徳としては「忠」とならぶ「孝」の部分まったく欠落しています。
立身出世しても情に流されないためには必要な冷たさかもしれないのでしょうかねぇ。
または「完璧」な人間などいないということでしょうか?
もしくは山本周五郎自身「肉親」と何か葛藤があったのでしょうか?
主水正の妻「つる」の見事なツンデレぶりは相変わらずよかった...。
下巻の重めな展開を明るくしています、こちらは随所に伏線はっていましたし。
エンターテインメント的には、藩主の謎をミステリータッチで解いていくという面もありますが、これまた今どきの人にはピンとこないだろうなぁ。
江戸時代でも藩は「血」ではなく、結び付けられた「縁」でつながるイメージなのでここまで「血」の部分には違和感なかったんじゃないかなぁとも思いますし。
等々いろいろ書きましたがいろいろ考えさせられる小説であることは間違いなく、また10年位後に読み返すことになると思います。
最後に。
冒頭、先代城代家老の滝沢主殿のことばとして紹介される「正しいだけがいつも美しいとはいえない、義であることが常に善ではない」まぁ当たり前といえば当たり前の言葉なのですがこれをどう受け取るかは人それぞれですね...。
↓中高…でなく忠孝、チュー公…日本語難しいですねぇ???よろしければ下のバナークリックいただけるとありがたいです!!!コメントも歓迎です。
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