思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

必読書=「日本共和主義研究」堀内 哲著  これを読まずして政治(家)はできません。

2024-08-28 | 書評

見事な書、日本を元から救うための基本書と確信します。
共和主義研究なしには、現実的な政治問題あるいは教育問題の解決の方途は原理上ありえないはずと思います。
若い研究者が著者に続いてほしいと切に願います。

これを読まずして政治(家)はできません。日本の山積し過ぎている深く大きな問題解決には、正確に緻密に全体を俯瞰したこのような研究書は必読です。必読!



武田康弘

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対テロ戦争と言う悪業・アメリカ主導は崩壊。「東京新聞」特集記事 西谷 修さんの解説

2024-08-25 | 社会批評

今朝の東京新聞特集記事です。

 

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靖国神社とは神社ではなく明治政府の施設で、死してなお国体思想(天皇現人神)に縛り付けているのは、恐ろしい仕業で許されません。

2024-08-15 | 社会批評

14年前、2010年のblogです。10年前に再録しましたが、また、載せます。極めて大切だと思うからです。


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靖国神社とは、神社でさえありません。

2014-08-16 | 学芸

『靖国神社』とは、明治政府が、従来の日本の伝統を壊して新たに政府がつくった新宗教=天皇教の施設で、明治2年に「東京招魂社」として建てたものを、10年後になし崩しに「神社」と改名したのです。

 東京招魂社(靖国神社)は、官軍=天皇側だけを祀る施設で、それまでの敵味方なく祀るという神道の思想を逆転させました。

なお、多くの戦争体験者が証言しているように、 「靖国で会おう!」などはヒドイ嘘であり、兵士はみな、故郷を夢み、先祖が眠る故郷の墓に入ったのです。当然ですが、靖国には誰の遺骨もありません。

 

靖国神社の思想と近代民主主義の思想とは二律背反です。

2010-08-15 | 社会思想


いうまでもなく、主権在民を原理とし自由と平等の理念を掲げた『日本国憲法』と、『靖国神社』の掲げる宗教イデオロギーは、まったく相いれません。靖国神社(明治政府がつくった国家神道)の思想を認めるならば、日本はもう一度、天皇主権の『大日本帝国憲法』時代に戻る他なくなります。

靖国神社は、
天皇大権を当然のこととし、明治以降の日本の戦争はすべて「聖」なるものと主張し、
韓国・中国への植民地支配はなかった!と主張し、
敵と味方を峻別し、天皇陛下のために斃れた者だけを祀ると主張し、
個人の信教の自由を否定して、兵士は日本の軍神=集合神だと主張します。

このような靖国神社の掲げるイデオロギーは、現代の日本国家をつくっている基本理念=近代民主主義の原理とは二律背反ですが、同時に、多神教の『神道』を天皇神格化により疑似的な一神教へと変えた明治政府の所業(神道の国家神道化)は「古き日本」の伝統とも大きく異なりますので、日本の悠久の歴史を主張する人々もまた「靖国思想」には反対しなければならないはずなのです。

明治政府は、富国強兵政策を進めるために、古来の「神道」を「国家神道」へと変えましたが、その思想の下では、一人ひとりのかけがえのなさは否定され、公(おおやけ)とは滅私奉公のことだとされたのです。このような国家主義=靖国思想に縛りつけられたままでは、兵士たちの霊は永久に浮かばれません。
彼らは、戦争のない平和な日本を夢見、差別のない、一人ひとりが大切にされる社会を夢見たはずです。天皇を神として崇め、それに従う人生をよしとしたのではありません。天皇の官吏(官僚)が治める自由のない日本をよしとしたのではありません。軍人が威張る日本をよしとしたのではありません。互いの自由を認め合い、皆でつくる平等なルール社会を夢見たはずです。
死してなお、靖国思想に縛りつけるのは、戦死者への冒涜でしかないのです。政府の絶対の責任として千鳥ヶ淵の拡張整備を行わなければなりません。

65年間、その義務を怠ってきた政府に対して、わたしは激しい公共的な怒りと憤りを感じています。

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以下は、『靖国神社』の遊就館で売られている宣伝パンフレットからの抜粋です。すさまじい内容です。

小堀桂一郎(靖国神社の理論的柱、東京大学名誉教授)の談・1999年8月



「靖国神社の本殿はあくまで、当時の官軍、つまり政府側のために命を落とした人たちをおまつりするお社である、という考えで出発したのでして、それは非常に意味のあることだと思うのです。 そこには「忠義」という徳が国家経営の大本として捉えられているという日本特有の事情があるのです。 「私」というものを「公」のために捧げて、ついには命までも捧げて「公」を守るという精神、これが「忠」の意味です。

この「忠」という精神こそが、・・日本を立派に近代国家たらしめた精神的エネルギー、その原動力に当たるものだろうと思います。ですから・・命までも捧げて「公」を守る、この精神を大切にするということは少しも見当違いではない。その意味で、靖国神社の御祭神は、国家的な立場から考えますと、やはり天皇のために忠義を尽くして斃(たお)れた人々の霊であるということでよいと思います。

靖国神社の場合は、・・王政復古、「神武創業の昔に還る」という明治維新の精神に基づいて、お社を建立しようと考えた点に特徴があるといってよいかと思います。

あの社は天皇陛下も御親拝になるきわめて尊いお社である。微々たる庶民的な存在にすぎない自分が命を捨てて国の為に戦ったということだけで天皇陛下までお参りに来て下さる。つまり、非常な励みになったわけです。
国の為に一命を捧げるということが道徳的意味をもつのは万国共通です。言ってみれば、人間にとっての普遍的な道徳の一項目なのです。

実は総理大臣が何に遠慮して、参拝に二の足を踏んでいるのか不思議でならないんです。
中共が総理大臣の参拝に文句を言ってくるのは、何も彼の国民感情が傷つけられたなどという話ではまったくない。あの国の民衆の大部分は靖国神社の存在すら知りません。・・外に問題を設けて反対勢力の目をそちらに向けさせようという国内政治の力学が働いている程度のことであって、まともに相手にすべきことではないんですね。

だから私はこの問題でも総理が断固として参拝されるのがよいと思うんです。そうすると直ちに北京から文句を言ってくるでしょうが、適当にあしらうなり、知らぬ顔を決め込むなり、いくらでも対処の仕方がある。
総理が北京からの苦情を無視して何度でも繰り返し参拝すれば、そのうち向こうも諦めて黙るに決まっている。
総理の参拝が実現し、やがて天皇陛下の行幸もできたということになると、私は国民のモラルに非常によい影響を与えることができると思うのです。」(小堀桂一郎(靖国神社の理論的柱、東京大学名誉教授)

 

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天皇制をやめて、日本共和国にしないと、永遠に不幸です。

2024-08-15 | 芸術

小学生の政治クラブ(文京区立誠之小学校5年6年)以来、60年間、憲法大改正=天皇制をやめて、日本共和国にすべし、と言い続けだが、いまだそういう政党さえない。恐ろしいほどイカレタ日本という幸福をつくらない国。超特権者を人権はく奪してつくり、その前に拝跪する。病気の国です。

武田康弘 哲学者(恋知する実存者)

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天皇家の思想は、到底容認できるものではありません。もう詰んでいます。

2024-08-15 | 社会批評

天皇家の思想は、到底容認できるものではない。遺伝に女性は関係ない、男がすべてというイデオロギーを今日でも主張し実行するのは、ありえない話で、そういう存在が日本国と日本国民統合の象徴(憲法1条)とは、理性なしもいいところです。日本人は哀れ。(前のBLOGに書いた通り、女性を入れた家系図を書くことは、絶対に不可能です)

 

Katsube Hirofumi
最近は、「天皇制」という言い方は間違いという論調まで出ています。
「君主制」というべきでしょうか?... 
いや、間違えました。
「天皇教」でしたね。
 
武田 康弘
最近ではなく、昔から、体制派ーウヨク国体主義者ー自民党は、天皇制というのは左翼の言い方、と言っていました。
おおばか三太郎の能なしです。
税金で支える仕組みを制度ではないというのは、天皇=神というイデオロギーが背後にあるからで、それでは人間の社会を超えています。
明治政府が作成した疑似一神教が天皇教ですが、その思想(国家カルト)に基づく、現実の制度が天皇制です。
 
 
Katsube Hirofumi
エックスで、知り合ったのですが、なるほどと思うことをいう人がいました。
⬇️
『そもそも今の日本は国ではなく明治以降打ち建てられた巨大な新興宗教ですから。 日本を国と捉えた批判が噛み合う訳がない。 信者にとって日本の批判は教義批判に等しいので異端と見なし出て行けとなる。 日本が自ら変われないのは宗教の信者にその宗教の教義は変えられないのと同じだと思います。』
 
 
 
武田 康弘
その通りです。信者とはそういうものですが、日本を天皇教信者の国とするなら、民主政(制)とは原理がことなります。なので、右翼は主権者を人民とする(主権在民)社会思想を否定します。
わたしは、小学生の時に学校に政治クラブをつくってもらい、それ以来自民党打倒!天皇教にもとづく天皇制廃止を目がけてきたのは、民主主義をつくるためです。
「社会契約論(ルソー)に依らない自民党憲法案をつくりたいので」、と参議院法制局に協力依頼に参院の連中がやってきた(荒井達夫さん談)のは、彼らの無知蒙昧をよく表しています。国連やめる気のようだ(笑)旧敵国条項は残しておいた方がよいですね。
 
金時綾小路
仮に天皇家が神武天皇から始めたのが事実として日本人の多数がそれに習うと言う精神的文化、精神性であるとするなら、大日本帝国と元首であり皇軍の名称はつけるべきでは無いと、形式であっても皇族のトップは外すべきと考えるが現実には御前会議にて作戦会議は行われ、又近衛兵は裕仁天皇を守る為の予算経常もあった訳だから、国家イデオロギーと天皇教の関係性から戦争責任は当然裕仁にあると言う考え方は有るするのは必然と私は思います。尚宗教教義など生の人間の生き様に無縁、遠ざけて生きてこそ自己の確立を養うもので、何かの組織化された宗教に宿るものではないと思う。ましたやGHQと裕仁、時の外務省は特に裕仁天皇は沖縄を基地と差し出し、外務省は米軍を日本に基地使用を要望した事、これは最近になって知った事ですが時間経過と共に事実が現れます。驚いたのは東條英機のお孫さんに年金が支給されている事です。政治的に想像が膨らみますね。女性天皇に女性でも好いのではの発言を、石破が発言しましたが、男子を産まなければのプレッシャーはあるだろうが、基本は武田さんが提言されたように京都へ帰還、形式業務から離れ人として生きるが賛同ですね。神のイデオロギーを信じる人は自身を信じない生き方。神は多数ありますから迷う根源の基。天皇が一番怖いもの共産主義。
 
 
武田 康弘
明治維新の輩が、吉田松陰を神格化・絶対化して暴力革命を成し遂げ、人々はその国家カルト思想とすさまじい暴力の力に従ったわけですが、
ルソーの言う通り、最初の暴力が人民を奴隷とし、奴隷はその暴力への恐怖心(裏には天皇現人神の信仰がある)から永遠の奴隷の生を歩みます。学者などは気が弱いので本にしがみ付き言い訳の言辞に終始します。ますます権威や権力の前に拝跪し深く奴隷になります。人々から背骨を抜くのが彼らの役割りですー東大病・官僚主義は、天皇教と三者一体による日本支配の思想であり仕組みです。
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悪臭のセーヌ川、どぶ海の東京湾、「運命の喉元を握りつぶしてやる」=ベートーヴェン

2024-08-13 | その他

わたしのfbより。短文。

とっても汚くて悪臭のセーヌ川。4年前は、どぶ海の東京湾。人類の祭典にふさわしい汚染汚濁で、金銀銅(笑・怒)。
みなが金(かね)儲け、金が一番の欲望。金があればなんでも買える~~(笑)あなたはどうですか?

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本を覚えて得意で喋る人、学校科目の暗記で高得点をとり、頭がいいと思う人、特定パターンで固まる紋切人と情報人。
例外はあるが日本人はそういう人ばかりが目立つ。自分の頭で考えるとはどういうことかを知らない。そろそろ人間になりたいもの。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

僕は断じて屈服はできない、運命の喉元を握りつぶしてやる=ベートーヴェンの言葉は、深く真に見事だ。
死の覚悟?死への先駆?そんな程度ではほんとうのことは決してなしえない。運命までも絞め殺す、という気概と思想をもってこそ、内と外の変革は可能だ。


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米軍による原爆で死んだ少女ー皆が聞くべき 史上はじめて宗教を超え神を越えた【ナーズムオラトリオ】(サイ) 21世紀の幕開けに初演された超感動の名曲

2024-08-06 | 芸術

「ナーズムオラトリオ」 ファジル・サイ作曲 2001年初演(トルコ大統領も列席)クリックで飛びます。

 

 原爆で死んだ少女、紙切れのように燃やされ灰になった7歳の少女は、10年たっても7歳のまま。世界的大詩人ナームズによる悲しみと怒りの哀歌は、ファジル・サイの熱く激しいアメリカ原爆投下への憤りのオラトリオとなり、

 人体実験で原爆を落としたアメリカの蛮行を、「神」ではなく「人間」の名で告発し、人間の名で激しく抗議し、人間として悪業と戦い、人間の名で鎮魂した。史上はじめての【宗教を超え神を越えた】この曲は、万人の胸を打ち、万人に勇気を与え、万人を鎮魂する。
 
 作曲者のサイは、こよなく愛する娘と広島で死んだ少女とを重ね合わせてこれを作曲したのが分かる。
 演奏者も数千人の観衆も全員が一丸だ。21世紀初年の傑作「ナーズムオラトリオ」は、アメリカの悪業を糾弾し元から正す。少女の魂にはどんな軍隊でも勝てぬ。
 
  ラストは、【どこにいようとも決して死ぬことはないように生きるべきだ。わたしが生きたと言えるために】
 
 【わたしが生きたと言えるために】、と何回もみなで歌います。最後は広島の少女が「わたしが生きたといえるために」(そう生きれなかった)を歌い、深い鎮魂のフィナーレ。言葉にならぬ感動が広がる。アメリカによる人類史上最大の蛮行による死は、トルコの大詩人ナーズム・ヒクメットと同じくトルコの音楽の天才ファジル・サイにより永遠に刻まれた。

 

 

少女が歌う詩の日本語訳(中本信幸訳)は以下です。

少女  ナーズム・ヒクメット

開けてちょうだい たたくのはわたし

あっちの戸 こっちの戸 わたしはたたくの
こわがらないで 見えないわたしを
だれにも見えない死んだ女の子を

わたしは死んだの あのヒロシマで
あのヒロシマで 10年前に
あのとき七つ いまでも七つ
死んだ子はけっした大きくならないの

炎がのんだの わたしの髪の毛を
わたしの両手を わたしのひとみを
わたしのからだはひとつかみの灰
冷たい風にさらわれてった灰

あなたにお願い だけどわたしは
パンもお米もなにもいらないの
あまいあめ玉もしゃぶれないの
紙きれみたいに燃えたわたしは

戸をたたくのはわたし
みんさん、署名をどうぞしてちょうだい
炎が子どもを焼かないように
あまいあめ玉をしゃぶれるように

(1955年)

 
ナーズム・ヒグメット                
(トルコの世界的大詩人・共産主義者=無神論者として13年間投獄)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 以下は、アメリカCNNテレビ(サイへのインタビュー番組)に書いたわたしのコメントです。

「ナーズム・ヒクメット(トルコの世界的大詩人=無神論者)の詩に少年期より親しんでいたファジル・サイが30歳のとき、トルコの文化庁・文部大臣から依頼されたのが21世紀初年に初演されて大成功を収めた「ナーズムオラトリオ」ですが、

神とか宗教とは無縁の人間賛歌と人間的抒情と人間告発(アメリカ政府と軍によるヒロシマへの原爆投下=人類史上最大の犯罪)で、それは欧米中心の歪んだ文明がもたらした悲劇です。ヒロシマで死んだ一人の少女を謳ったヒグメットの有名な詩=一人ひとりの実存(欧米人のではなく人類の)を中心とする人間性に溢れた深く心をうつ詩に、ファジル・サイは、深く抒情的な曲をつけ、「ナーズムオラトリオ」の中心に据えたのでした。

原爆投下をいまだ謝罪すらしないアメリカは、それゆに第二次大戦後も繰り返し、他国を軍事力で滅ぼしたり、脅したり、数えきれない民間人を殺害してきたのです。自分たちが日常的に人権を犯してきた罪を自覚さえしないのは、人間悪そのものといえます。世界の良心で、言語学の天才=ノーム・チョムスキーの厳しく正しい批判に応えることをしないなら、みなに呪われるでしょう。「自覚した罪は半ば許されている」-何よりも自覚が必要です。」
 
武田康弘
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「ナーズムオラトリオ」で、ナーズムヒクメットの詩を朗読したトルコを代表する演劇人=ジェンコ・エルカリさんがお亡くなりになりました。

2024-08-03 | 芸術

「ナーズムオラトリオ」で、ナーズムヒクメットの詩を朗読したトルコを代表する演劇人=ジェンコ・エルカリさんがお亡くなりになりました。心より哀悼の意を捧げます。

ファジル・サイ作曲とピアノ 「ナーズムオラトリオ」は、世界を変える実存思想によるオラトリオです。広島の少女への深い思い。

 



ジェンコ・エルカリさんの棺をみなで盛大な拍手で送り出していました。


武田康弘

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