思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

金泰昌・武田康弘の恋知対話ー3

2007-06-12 | 恋知(哲学)

金泰昌様 2007年5月23日

学校序列宗教=東大病の下では、自我の内的成長は不可能。ドレイがドレイを管理する社会

「私」が生かされない日本の現状を解明するための「問い」に感謝します。早速お応えします。

まず1について。
結果的には、両者は「相互強化的」であるわけですが、そのはじめの原因は、「反・哲学的な教育」にある、と私は確信しています。
また、日本の現状が「非・哲学的な環境である」というのはその通りですが、「日本人は元来哲学や思想が嫌いで物をつくることや実際経験したりすることを大事にする」というのは、ひどいウソとしか思えません。日本人の学者や文筆業者からこういう意見が出てくるのは、彼らが人々の「黙せるコギトー」の声を聴く耳を持たず、ただ活字化・映像化された情報に頼ってしか「現実」を見ることができないからでしょう。

次に2について。
「上位者の何に従うのか?」ですが、
まず、【下位者の「私」は上位者の「公」のために徹底的に抑圧・排除・犠牲になってきた】という現実を変えるための金さんの凄まじいまでの奮闘努力に深い敬意を表します。
お応えします。
日本における「上位者」とは、ほとんどの場合、「私」としての意見を持たない・言わない人です。そうでなければ上位者にはなれません。彼らは、自分の考えを鍛えるのではなく、上位者たるにふさわしい態度を身につけ、周囲にうまく合わせる言動に磨きをかけるのが生き方の基本形となっています。上位者となった人は、既成の価値意識とそれを支えるシステムの維持・管理を自己目的化し、通常それ以上のことはしません。
このように内実を追求せず、カタチのみを追うというのは、意味論や本質論としての学習・学問がなく、単なる事実学に支配される知のありようと符合していますが、そうだからこそ、出身学校名による単純な序列主義が成立します。ほとんどの日本人は、キツい言い方をすれば、東大を頂点する「学校序列宗教」の信者だと言えますが、この〈序列による意識の支配〉が「私」の発展を阻害してきました。哲学の命である自由対話が成立しないからです。

しかし、私は子どもが好きで教育を仕事としていますが、子どもの多くは、どうして?なぜ?と考えることが嫌いではありません。「事実学」を効率よく習得するために不都合となる【質問と対話】を嫌がる親や教師の意向に従わされ、変えられてしまうまでは。
結論を言えば、このようにカタチ・結果を優先し、序列に基づく統治が行われている社会では、「上位者」に従うのは、上位者の「何か」(内容)には関係なく、それが上位者であるからだ、という事になるわけです。序列主義の想念は、中学生がよく言う「先輩の命令には逆らえない」という言葉に象徴されています。
以上は、最後の問い―天皇制の問題と結びついています。

キムさんも強調されるように、狭い「私」=エゴを越え出るためには、徹底的に「私」につくことが条件となりますが、失敗と試行錯誤を嫌がり、決まった型に早く嵌(はめ)ようとする教育の下では、自我が内的には成長せず、「私」が「私」にはなれませんから、合意形成の作業がはじまらず、「公共」という意識も生じません。こういう社会では、上からの命令=「公」(既存システムの維持に必要な権力者の集合意志)だけがある、というわけです。

日本の「エリート」のほとんどは、受験知に囚われ、システムが命じる価値意識に従うだけで、失敗を重ねながら自我を成長させる生き方をしてこなかった人々ですから、かれら自身が、既成制度のドレイでしかなく、そういう意味では、日本とはドレイがドレイを管理する社会だ、とも言えます。中身・内容の進展ではなく、制度の維持それ自体を目的とするシステムの中では、具体的な現実問題に対しては誰も責任は取らない・取れないということになり、現場にいる人間だけが出口のない状況に追い込まれて苦しむのです。こういう無責任性の体系=集団同調主義による社会システムの最上位に天皇という存在を置くわけですが、それも個人としての人間ではなく、天皇制というシステム内人間=現人神です。したがって、現実に対する責任は取れません。グルグルと堂々巡りで、どこにも誰にも責任はなく、結局はなにごとも自然災害のようにしか意識できず、「しかたなかったんだ」ということになるわけです。

では、最後に、明治政府がつくった「近代天皇制」の定義についてです。
確かに「近代天皇制」=「国体思想」が「全体主義」であることは、私も間違いないと思いますが、「天皇教」とでも呼ぶべき「明治政府作成の擬似的な一神教」の「神」と規定した天皇を、同時に現実政治の主権者としたのですから、事は複雑で、「国家宗教に基づく全体主義」とでも呼んだらいいのではないかと思います。

この天皇による統治を支え、実務を行ったのが、東大法学部卒の官僚であったので、彼らは「天皇の官吏」と呼ばれていたわけです。周知の通り、この明治政府がつくった官僚制度は、戦後もその基本のありようを変えずに今に到っています。この「官」による「公」(権力者の集合意志)を「民」による「公共」(市民的な共通利益)に変えようとする金さんの努力には、ほんとうに頭が下がります。民主制社会における「官」は、ほんらい主権者である一人ひとりの市民の側に立って仕事をしなければならないはずですが、依然として既存のシステムを維持するための「公」という装置でしかなく、公共世界を拓くという発想にはなりません。

この現状を変えるには、「民から拓く公共」という発想の下に「官」を位置づけ直す以外にはないと思いますが、この点、金さんはどのようにお考えでしょうか?お聞かせ願えれば、と思います。

武田康弘
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武田康弘様 2007年5月24日

「官」という巨獣による支配―官尊民卑―国体護持―神妙な無責任体制
細かい違法行為は法によって処罰されるが、巨大・強力な反法行為は天下を横行してそれを制するものなし


 “「黙せるコギトー」の声を聴く耳を持たない日本の学者や文筆業者のひどいウソ”という表現には魅了されました。しかしそれは日本の学者や文筆業者に限られた宿痾ではないと思われます。言語以前の沈黙の深層の底に流れる情動のマグマを感知するということは並外れたわざ(技・業)ではないでしょうか。誰にも期待できることとは言えません。ですから、何とか彼ら・彼女らの声に謙虚な耳を傾けることにしてきたつもりですが、日本では異邦人であるわたくしの語り掛けに心を開いて応答してくれるというのが、極くまれなのです。ですから読んだり、聴いたりしたことがウソなのかどうなのかもよく分からないのかも知れません。しかしです。武田さんのご意見では日本人が大体抽象思考とか一般化思考を好まないとはお考えにならないのでしょうか。例えば、自分の身内のことになるとものすごくやかましくなるわりには、他人事になりますと冷淡であり、ほとんど思考停止になるということを普段日常生活を通して感じているわけです。北朝鮮に拉致された親類の人権は声高く叫びまわりながらも自国の軍隊によって踏み躙られた近隣諸国の数多い私人たちの生命と尊厳に対しては、証拠が無いとか、他の国々もやったことではないかというような非理・無理・背理をもってごまかして平然としていられるというのが、どうも理解できないのです。ものごとを自他相関的に考えるということ、そして適当に距離を置いて見るというのが抽象思考というのですが、そのような思考回路は十分作動していないように感じられるのです。もしかしたらそれは、「上位者に従う」ということが「上位者の具体的な命令の内容を自分の頭で判断してから服従する」というよりは「上位者の意思」と思われ、そのためになることと勝手に決めて手前に用意されたマニュアル通りに行動するだけのことが限りなく繰り返され、自動拡大再生産された結果かも知れません。ですから個々人は別に自分の問題としてそこに具体的なかかわりを感じないし、したがいまして自責の念も何もないということですかね。あえて言えるとしたら、すべてはお国のためにやったことだし、それを天皇の御国を守るためのことであったということで正当化されると思っているのかも知れません。すべては「公」(=国体)の護持のためであるという最終的なお墨付きによって罪悪感は消去されるということなのでしょうか。であれば初めから終わりまでそこにあるのはシステム=国体としての天皇制という「公」だけが実在し、すての「私」はその中に融合無化されるわけですから、誰も責任を負うとかということが構造的に不可能になっているわけです。実に神妙な無責任・脱責任体制ですね。細かい小さい違法行為は法によって処罰されますが、巨大・強力な反法行為は天下を横行してそれを制するものなしという状態のように見えてしょうがないのです。

 “日本における「上位者」とは「私」としての意見を持たない・言わない人”であり、“そうでなければ「上位者」にはなれない”というのも日本だけの事情ではないと思われます。“自分の考えを鍛えるのではなく、上位者であることを示す言動に磨きをかけるのが日々の生き方の基本形になっている”とう現象もどこでも目にするような日常茶飯事ではないかと思います。問題はそのような「上位者」たちが、自分たちのキタナイ「私」(事・心・利・欲・益)を「公」の名の下に充足させながら一般市民たちの細く小さい「私」(事・心・利・欲・益)を犠牲にするということなのです。「公」の実体は果たして何なのかということを冷静に考えてみますと、それは結局武田さんのおっしゃる通りの上位者の命令=既存システムの維持(管理)に必要な(だけにこだわる)権力者の集合(団)意思(及びその仕組)でしかないということですね。それが国民・市民・個人全体のためという口車に乗せられて「私」(の生命・生存・生業)が徹頭徹尾否定されてきたとうのが問題ではないかということです。

 わたくしは「民から招く公共」という考え方に対しても、もっとつっこんで調べる必要を感じます。わたくし自身は一人ひとりの私人の「私」(事・心・利・欲・益)を殺すのではなく、活かすというのが発想と行為の原点になる必要を強調したいのです。そして「私」は単独ではなく、複数が存在するわけですから、「私」と「私」とのあいだから、たがいの「私」を活かしあうというのが公共生生の現場であるという捉え方を基本にするということです。今までの最大の問題は「公」という名の下に巨大・強力な一つの「私」が他のすべての「私」を弾圧・抹消・否定したということです。皆のためというのは「権力者」の一方的な思い上がりにすぎないのです。「みんなのため」というのは実際には(具体的な)「誰のためでもない」ということになりますし、それが「善」であるという思い込みを伴うから厄介なことになるのです。「公」と「私」は同一論理の表と裏、大と小、強と弱という関係で相互包摂の関係にあるという実像が見えてきたのです。ですからわたくしはそのようないつわり(偽・詐)への執着から脱出して「私」と「私」との相克・相和・相生のプロセスからたがいの連動向上をはかるという意味の公共を重視するのです。これこそ本当の意味における官民共働であり、私民主導の公私共媒であり、一人ひとりの私人の幸福が複数の自他共福の始動をもたらし、それがたがいの幸福の善盾還作用を回転させる原動力になり、そこから幸福共創の公共世界が拓かれるという展望なのです。わたくしは「民」という漢字のもともとの意味が嫌いです。それはメクラ(盲・瞽)であり、ドレイであるからです。ですからあえて「私人」と言いたいのです。従来は「公人」と言えば何だか偉い権威がついた人間のような感じがありましたが、「公人」とは結局「私人」たちが出した税金を使って私人たちの幸福を実現し、それを妨害するものから保護するための生活装置の管理・運営を委託された代理人であると言えるでしょう。それが「公」という美名の下で自分たちの委託者をばかにしてきたわけでしょう。ばかにするのも程があるということで、私人たちが怒りはじめたのが、今日の反官僚的社会心理というものではありませんか。官がそのような現実をきちんと自覚するようになれば「私人から拓く公共」というのが社会を変えることになると思うのです。「私」はエゴイズムだからだめだというのが正統的な道徳論ですが、「官」は合法的に正当化された強者の「私」の構造化・組織化にすぎない一方、私人たちの「私」は合法的正当化の枠外に放置され、構造化・組織化への途が塞がれました。しかしそのような「官」優性の制度思考は官尊民卑と滅私奉公という時代錯誤的心情倫理によって強化・増幅されたのです。しかしそれは、近代国家という名の「公」の制作にともなう虚偽意識でしかないとは考えられませんか。「官」という巨獣が必要とする成長ホルモンのようなものではないかと考えられますが。わたくしの個人的な見解ですが、「公」からは「公共」への開き直りがほとんど不可能であります。「公」とは統合・統制・統一の垂直的力働であります。それとはまったくちがいまして、「公共」とは多様・多元・多層の水平的共働であるからです。それは「公人の指示」ではなく、複数の相異なる一人ひとりの老若男女たちの「私」(事・心・欲・利・益)をそれぞれの相克・相和・相生のプロセスを通して共に向上・実現・盾還させようとする「私人の工夫」なのです。ですから一度私人の立場に戻って考えるということが先決課題ですね。そこから出てくる私人たちの力がより人間を幸福にする社会を創るには、「私」の見直し・立て直しから始まるのが現実的な道筋ではないかと思われますが、武田さんのお考えはどうでしょうか。

金泰昌
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続く



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