思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

連載:『恋知の対話』ー金泰昌(キムテチャン)・武田康弘

2007-06-10 | 恋知(哲学)

今日から、金泰昌さんと武田康弘の恋知(哲学)対話を連載しますので、ご意見ご感想をぜひコメント欄およびメールにてお寄せ下さい)

【第1回】

金泰昌様 2007年5月10日

キムさんからのお申し出で、はじめの問題提起です。

わたしは、「哲学するってどういうことかな?」と考えて、40年以上の月日がたちましたが、それは、ただ書斎の中で本を読むこととは違い、自分にとって切実な人生問題や社会問題にぶつかることで始めて生きて動くようなもの、と思うに至りました。

ひとつの論理で追うのではなく、複眼的にものを見るのが哲学することですが、そのためには、さまざまに「対立」する世界を生きてみることが条件になるのではないでしょうか。いくつもの論理があるとき、それを平面に並べて比較してみてもダメで、立体としてつかむことが必要ですが、この立体視は、現実問題とぶつかり、その解決のために苦闘するところから生まれるようです。

書物の勉強は思考の訓練として重要ですが、それだけを積み重ねても、意識・事象を立体として把握することは難しいと思います。ただ知識を増やし、演繹を延ばすに留まり、自己という中心をしっかりともった立体世界がつくれないからです。

そうなると、哲学はいろいろな哲学説を情報として整理すること、という酷い話になってしまいますが、ここからの脱出は容易ではありません。それは、日本では幼い頃から、正解の決まっている「客観学」だけをやらされ「主観性の知」の育成がなされないからですが、いわゆる成績優秀者ほどこの弊害がひどく、しかも「優秀」であるゆえにこれが自覚されずに、かえって平面の知を緻密化している自分を他に優越する者と誤認しがちです。

こういう世界で生きると、人はみな実務的領域だけに閉じ込められ、ロマンと理念を育む立体的な生を開けず、即物的な価値に支配された平面的な存在に陥ってしまうのではないでしょうか?

キムさんは、どうお考えですか?

武田康弘

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武田康弘様 2007年5月15日

朝起きてから夜寝るまでー哲学を楽しむ。

 先日は最初の問題提起をいただきましてありがたく存じます。

 武田さんのお陰で生活と哲学のことを改めて考えてみたくなりました。わたくしは現在まったくの一私人として日本で生活しております。そして、現在のわたくしにとっては哲学するということが即ち生きているということです。朝起きて夜寝るまでのわたくしの生活と言えば、その目的も過程も手段もひたすら哲学することだけです。問題意識を共有する友人たちとともに「日本を哲学する」ことです。わたくしが日本で暮らしを続けているのは金儲けのためでも、宗教の伝道のためでも、情報活動のためでもありません。どんな公職も公的地位もありません。100%私的な身分です。一私民です。日本国籍者ではないから、日本国民でもありません。ですから、わたくしの生活はまったく私的な生計によって成り立っています。そしてわたくしの活動はもっぱらわたくしの私的生活にその源泉があるわけです。ということはわたくしの思考と判断と行為と責任が、一切の職務や地位に拘束されたり、影響されることのない、自由な一私人・生活者・市民の立場から構成されるということを意味します。そのような立場から国家と市場と市民社会との関係をその大元から改めて考えることが必要になってきます。一人の異邦人として生きていくということは、日本人として生きていくというのとは違うでしょう。ですから、異邦人として生きていくことの実存的・人格的・制度的意味を深く考えざるを得ません。そこには当然、挫折があり立腹があり悲哀があり落胆があります。かと思えば、また意外な発見があり、予想外の出来事があり、かけがえのない歓喜があります。勿論、日本人が日本で生活する場合もほとんど同じではないかと反論されるかもしれません。おそらくそういう側面もあるだろうとわたくしも推測します。しかし、どこまでが共通し、どこがどう相違なるのかを確認してみたいという欲望をわたくしはどうしても放棄できないのです。この数年間、わたくしが考え悩み日本と中国と韓国の友人たちと対話を通して、共働探究してきた切実な問題の一つは果たして「私」(事・益・利・欲・心)が抑圧・否定・排除するべき悪なのか、それとも賢明に調整・管理・活用すべき力働なのかということです。「私」は何故、否定されなければならなかったのか。「私」を肯定すると何がまずいのか。わたくしにとってはどうでもよい問題ではないのです。ほっておけないのです。ですから哲学するのです。武田さんはどうお考えですか。

 わたくしの妻は時々わたくしが哲学することに凝りすぎて、気が狂ったのではないかと言います。わたくし自身も呆れ返ることがまれではありません。よりによって日本で哲学することが暮らしの目指しであり、成り行きであり、手立てであるなんて、よほど変わり者の頑固一徹ではないかと言われています。わたくしはいままでの人生の中で40年間は主に国立大学や国立の研究所で政治哲学・社会哲学・国際関係哲学・環境哲学などをそれぞれの分野の専門学者たちから教えてもらったり、また、学生たちを教えたりするなかで、すごしました。それも韓国と日本を含めていろんな国々のいろんなところで。しかし、そこで教えてもらったり、教えたりしたのは例えばソクラテスとかプラトンの哲学であったり、孔子や、孟子の思想でありました。そして、彼らについての文献学であり、事実学であり、客観学でもありました。そこにはわたくしの生活に根付いたわたくしにとっての切実な問題―私的・公的・公共的問題群―をわたくしの頭で考えわたくしの心で悩み苦しみ痛み喜び、わたくしの手足で実践活動するということはなかったのです。哲学の観客というか、傍観者の哲学といいましょうか。そこには哲学の当事者、人格的生命体としてのわたくしの哲学はありませんでした。

 わたくしは情報知の量的増加とその頭脳内蓄積が哲学とは思いません。哲学者の名前をたくさん覚え、書籍のタイトルを知り、学説の内容を解説することも哲学教育とそれにつながる哲学研究の一部ではあると思います。しかし、わたくしが現在、重視しているのは他者とともに哲学するということです。わたくし一人で考える哲学ではなく、他者とともに考え、そして語りあう哲学です。わたくしにとって何よりも誰よりも気になる他者はいまのところ日本であり、日本人であります。それは実は一番近いところにいる隣国・隣人なのに一番無知であり、無感覚であり、無関心であったという反省があるからです。反日・憎日・克日がいつのまにか避日・棄日・無日―日本なんてどこにあるの?―になってしまったとも言えるでしょう。わたくしがそうであったということは、日本人もそうであっただろうと考えられるわけです。ですから、お互い様です。互いに他者同士が他者を哲学するということが苦痛になるのか、喜楽になるのかわかりません。しかし、少なくともわたくしの方は心構えが出来ています。「(ともに哲学することを)知る者はそれを好む者には及ばないものであり、それを好む者は、それを楽しむものには及ばないものである」という孔子のお勧めを武田さんとの対話を通して実証したいのですがどうでしょうか。

金泰昌
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明日に続く。

金泰昌さんについては、クリック





コメント
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