思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

日本の伝統とは、自由と平等のようです。世界をリードした素粒子論。

2010-04-27 | 恋知(哲学)

わたしの手元に、40年前に購入した『現代学問論』(1970年・毎日新聞社編・勁草書房刊)があります。大学1年生のときに読んだもので、湯川秀樹、坂田昌一、武谷光男、三人の世界的な理論物理学者(素粒子論)による鼎談です。

究極の物質とは何か、という思想ではなく、「物質の階層性」という見方で素粒子の世界を暴こうとしたのが坂田理論ですが、そのしなやかな哲学に基づく発想は、正反の素粒子の非対称から宇宙が誕生したとする「益川、小林理論」(ノーベル賞)をうみだす元になったと言ってもいいでしょう。

その坂田研究所では、自由・対等な議論が奨励され、徹底されていたのですが、それは、長岡半太郎、石原純、仁科芳雄らの伝統に上にあるもので、オリジナリティーをタブーとした日本のアカディミズムへの挑戦であったのです。それが世界をリードする成果を次々と生みました。

長岡半太郎は、真ん中にプラスの粒子があり、そのまわりをマイナスの粒子が回っているという当時としてはとんでもない発想を世界ではじめて出しましたが、官学アカディミズムに潰されました。「博識尊重、技術偏重、オリジナルティー軽視」という明治政府による国家主義の教育・権威主義の学問がもたらした悪弊です。

しかし、1930年代以降、このオリジナリティーをタブーとする日本の大学の風習に対抗して、世界をリードする4人、湯川、朝永、坂田、武谷が現れたのでした。

「神棚に祭り上げられていたニュートン力学もひっくり返すことができたんだから、おれたちもひとつやってみよう」(湯川秀樹)という気持ちを持ち生まれた成果のひとつが湯川中間子論(ノーベル賞)ですが、これは武谷三男がつくった科学方法論・「三段階論」が強力な援護射撃になったと言われています。当時、欧米を支配していたコペンハーゲン学派に対する挑戦であったのです。三段階論とは、現象を記述する「現象論的段階」、現象の中の実体を捉える「実体論的段階」、本質をつかむ「本質論的段階」の三つ、これは再び「現象論的段階」に戻りラセン状に発展する、この三段階を研究者は意識することが必要という認識の方法論です。

坂田研究所でもこの三段階論を重要な方法としていて、自然観、物質観をもつこと=哲学することの必要性を強調しています。湯川さんも「数学でさえ真偽が証明できない命題が必ず存在する」ことを数学者の話としてあげ、「絶対性」の神話を危険視し、非専門家が哲学する必要を訴えています。

米国のゲルマン博士のクオークモデル(ノーベル賞)も坂田模型の亜流にすぎないと言われていますが、自由・対等な議論の継続、オリジナリティーの尊重、アカディミズムの権威への挑戦、これが世界の素粒子論をリードした精神だったのです。

鼎談・『現代学問論』では、試験秀才は覚えるだけの頭脳であり、これを求める日本の教育には大きな欠陥があること、もの知りの学問・博識の尊重が学問の発展を阻害すること、考える力、独創性がないことは致命的欠陥であることが述べられ、本質に迫る努力=哲学の必要性が繰り返し語られています。しかもその哲学とは、論理計算などの哲学ではダメで、それでは哲学の貧困を招く(武谷)、記号論理のような哲学ではなく、スマートでないとみなされている哲学=もっと根源的な問いを発する哲学が求められる(湯川)、哲学の数学化は、哲学の宗教化にもなる、それは本質に迫ろうとする哲学にはならない、人間や社会を考えるにも武谷三段階論が大事だ(坂田)、というものです。


最後に、興味深い発言を少しだけコピーしましょう。

「ほんとうの意味の専門バカになって、ぐっと食い下がっていけば、ちゃんとモノになるんです。そこが大事。専門バカも徹底すれエセ学問と最も闘う学者になることもありうる。」(武谷)
「教授というものが偉いと思うところから学問の堕落がはじまる。」(坂田)
「秀才が教授になると、どうしようもない。」(武谷)
「偶像と儀式を打破せよ。」(坂田)
「学問というのは、それ自身の中に、どこか楽しい、ということがないと、怖いことになる」 「アカディミズムというのは、「論」ではあかん、「学」でないとあかん、となりやすい。それでは困る。」(湯川)

どうやら日本のよき伝統とは、自由と平等の民主的精神のようです。世界の理論物理学(素粒子論)をリードした4人は、敗戦前から活躍をはじめていたのですし、彼らを生んだ土壌は、長岡半太郎らの明治時代の物理学者にありました。帝国主義化した「皇民・皇軍の日本」ではなく、山県有朋らに潰された「自由民権思想の明治」にこそよき日本の伝統がある、わたしはそう思います。その伝統の中に益川さんや小林さんをはじめ多くの現代日本の自然科学者もいるのです。


武田康弘

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

まことに痛快! (Sam)
2010-04-28 12:47:31

このような解釈、まことに痛快!
小・中・高と学校で学ぶのは権力者・為政者の歴史のみ。民主制の社会に住むのに何で過去の権力者・為政者についてのみ学ばねばならぬのか意味不明です。
歴史に何を見出すのか。もちろん今と未来に向けて(反省を含めて)最良のものを見出していくためです。
タケセンは科学者(素粒子論)の例を引き出していますが、無論のこと、他の分野でも脈々と日本の伝統が息づいています。(残念ながらメジャーとは言いがたいですが。)
よき伝統を活かし広めていきたいものです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

民主主義の伝統こそ (タケセン)
2010-04-28 13:10:34

Samさん

日本には、素晴らしい伝統があります。民主主義は親鸞などの改革仏教時代(鎌倉時代)から日本人の心なのですしね。

心が歪んだウヨクの「日本万歳」というあまりに低次元の言動は論外ですが、真に優れた日本の思想は、世界に冠たる普遍性を持ちます。
ただ、日本の官府は、この人類的な普遍性をもつ個人としての日本人の価値を低く見て、官が個人の上にあるかのように画策してきたわけです。それを支えたのが明治政府作成のシステム=「近代天皇制」であり、国家神道(≒天皇現人神)という気色の悪い宗教であったわけです。 わたしの言う「近代天皇制=靖国思想・官僚主義=東大病」。

わたしたち良識ある市民は、民主主義の素晴らし伝統を活かし、天皇主義の明治の負の遺産を廃棄して、よき日本社会をつくりたいと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

深く感銘しました。 (Cmoon)
2010-04-30 18:39:16

素粒子論……?僕の苦手な分野です。さてどうしよう。

読み始めて感じたのは「ちょっと僕には理解できないかもしれない」と不安でしたが、読み進んでいくうちにじわじわと吸収されてきました。
終わりには「そういうことだったのか!」と深く感銘しました。

”本質に迫る努力=哲学”がなかったら、創造の進展、素粒子論の進化はなかったわけですね。”本質に迫る努力”の底流には、日本のよき伝統を見ることができる。それが自由と民主主義……

引用していただいた、三人の科学者の言葉で再認識することができます。
まさに自由と民主主義を発想させる言葉ですね。

それぞれの主語にあたる部分を、現代社会を歪めている、「官僚」「検察」「天皇制」に置き換えてみました。
活きた哲学、本物の哲学は、いつの時代の歪みの根源をも紐解いてくれるんですね。

それから、タケセンさんとSamさんのレスを読んで……
僕が歴史を自分なりに理解し始めたのは、中央の為政者、権力者の歴史からではなく、マージナルな場所で、あるいは流浪しながら日本文化の底流を形成し続けてきた、流民、卑民たちの歴史を五木寛之さんの小説や沖浦和光さんの著書を読んでからです。
中央の権力者の歴史からは、歴史の一部しか見渡すことができませんでしたが、庶民、卑民、流民の歴史から視界が一気に開けてきました。
また五木寛之さんは、親鸞や蓮如についての作品も多く感銘を受けています。




コメント (3)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« またウォルフレン氏の予言が... | トップ | まるで罪人―テレビ朝日などの... »
最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
まことに痛快! (Sam)
2010-04-28 12:47:31
このような解釈、まことに痛快!
小・中・高と学校で学ぶのは権力者・為政者の歴史のみ。民主制の社会に住むのに何で過去の権力者・為政者についてのみ学ばねばならぬのか意味不明です。
歴史に何を見出すのか。もちろん今と未来に向けて(反省を含めて)最良のものを見出していくためです。
タケセンは科学者(素粒子論)の例を引き出していますが、無論のこと、他の分野でも脈々と日本の伝統が息づいています。(残念ながらメジャーとは言いがたいですが。)
よき伝統を活かし広めていきたいものです。
返信する
民主主義の伝統こそ (タケセン)
2010-04-28 13:10:34
Samさん

日本には、素晴らしい伝統があります。民主主義は親鸞などの改革仏教時代(鎌倉時代)から日本人の心なのですしね。

心が歪んだウヨクの「日本万歳」というあまりに低次元の言動は論外ですが、真に優れた日本の思想は、世界に冠たる普遍性を持ちます。
ただ、日本の官府は、この人類的な普遍性をもつ個人としての日本人の価値を低く見て、官が個人の上にあるかのように画策してきたわけです。それを支えたのが明治政府作成のシステム=「近代天皇制」であり、国家神道(≒天皇現人神)という気色の悪い宗教であったわけです。 わたしの言う「近代天皇制=靖国思想・官僚主義=東大病」。

わたしたち良識ある市民は、民主主義の素晴らし伝統を活かし、天皇主義の明治の負の遺産を廃棄して、よき日本社会をつくりたいと思います。

返信する
深く感銘しました。 (Cmoon)
2010-04-30 18:39:16

素粒子論……?僕の苦手な分野です。さてどうしよう。

読み始めて感じたのは「ちょっと僕には理解できないかもしれない」と不安でしたが、読み進んでいくうちにじわじわと吸収されてきました。
終わりには「そういうことだったのか!」と深く感銘しました。

”本質に迫る努力=哲学”がなかったら、創造の進展、素粒子論の進化はなかったわけですね。”本質に迫る努力”の底流には、日本のよき伝統を見ることができる。それが自由と民主主義……

引用していただいた、三人の科学者の言葉で再認識することができます。
まさに自由と民主主義を発想させる言葉ですね。

それぞれの主語にあたる部分を、現代社会を歪めている、「官僚」「検察」「天皇制」に置き換えてみました。
活きた哲学、本物の哲学は、いつの時代の歪みの根源をも紐解いてくれるんですね。

それから、タケセンさんとSamさんのレスを読んで……
僕が歴史を自分なりに理解し始めたのは、中央の為政者、権力者の歴史からではなく、マージナルな場所で、あるいは流浪しながら日本文化の底流を形成し続けてきた、流民、卑民たちの歴史を五木寛之さんの小説や沖浦和光さんの著書を読んでからです。
中央の権力者の歴史からは、歴史の一部しか見渡すことができませんでしたが、庶民、卑民、流民の歴史から視界が一気に開けてきました。
また五木寛之さんは、親鸞や蓮如についての作品も多く感銘を受けています。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

恋知(哲学)」カテゴリの最新記事