思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

白樺派、とはなんですか?→お応えします。

2009-10-30 | 白樺文学館

以下の質問がgooブログの「教えてgoo」のコーナーにありましたが、それへの回答がひどく浅薄でしたので、わたしがお応えします。

質問者:白樺派、とはなんですか?

久しぶりに小説でも読んでみようかな、と思いました。中学生の時読んだ、武者小路実篤の「友情」が、とても好きだったので、実篤について調べたところ、彼は、白樺派の作家であることが分かったのですが、その白樺派とはいったいなんですか?

調べてはみたのですが、難しい言葉ばかりで、ちょっと理解できませんでした。簡単な言葉で、説明してもらえると嬉しいです。

また、同じ白樺派の同人作家たちの作品は、実篤の作品に共通するところがあるので
しょうか?「友情」のような作品に再び出会いたいので、もし良ければ、本の紹介、してもらえると嬉しいです。

アドバイス、よろしくお願いします。
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(以下は、mさんの回答)

要するに「白樺派」というのは、上流階級の育ちのいいお坊ちゃん作家のグループであり、人間は自由であるべきだとか、人を信じることは素晴らしいとか、貧しい人たちにも愛情を注げば明るい社会ができるなどと考えるタイプで、よく言えば「モラリストで理想家肌」、悪く言えば「苦労知らずのおめでたい人」が集まった仲良しクラブのようなものです。

そういえば、武者小路実篤の小説に「お目出たき人」というものもあります。

ただ、所詮は上流階級の方々なので、武者小路実篤はユートピア社会の実現を目指して「新しき村」を建設したけれど、気紛れな言動も多く、有島武郎は人妻と心中するなど、人間としての限界、弱さも目立ちます。

まぁ、今も昔も、作家は作品をして語らしめるのであって、高邁な人間性を求めるものではないのでしょう。
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わたし(タケセン=武田康弘)の回答

お応えします。

学習院時代から文学や思想についての同人誌を出していた3つのグループが、雑誌「白樺」を創刊したのは1910年4月でした。この年の6月、無政府主義者の幸徳秋水が、天皇暗殺を企てたとして逮捕され、無実の罪で死刑が執行されました。この「大逆事件」について、政治には疎い志賀直哉も激しく憤り、政府批判の文章を残しています。また、8月には、「日韓併合条約」が調印され、事実上、日本は韓国を植民地としました。知識人たちは閉塞感に囚われ、政府に近い森鴎外でさえ、自由な文学の創作を諦めて「歴史小説」に限定せざるをえなくなりました。

こうした《天皇制国家主義》が大手を振るう時代に、自ら「異端者」を名乗る彼らが、その出自の特権性を活かして、自由と個性を賛美し、新たな時代を開こうとしたのが白樺派の文化運動だったのです。

千葉県我孫子に移り住んだ柳宗悦、兼子、志賀直哉、康子、武者小路実篤、房子、バーナード・リーチは、毎日のように交流しました。柳宗悦は、1919年に起きた朝鮮の「三.一独立運動」への弾圧=無差別発砲に激しい怒りと深い悲しみを持ち、翌1920年(柳31歳)に、「朝鮮人を想う」を読売新聞に書きましたが、これにより柳は、危険人物のリストに載せられ、官憲に見張られることになったのです。この年から柳夫妻は、朝鮮人を励まそうと幾度も朝鮮に渡り、兼子(リート歌手)は多くの音楽会を開き、宗悦は講演会を催しましたが、この草の根の民間交流は、朝鮮の人々に歓呼をもって迎えられたのでした。「民芸」という新しい思想=運動も、朝鮮の「ふだん使い」の陶器への感動から始まったのです。

若き獅子たちの「白樺派」としての文化運動は14年間で終わりましたが(関東大震災時まで)、その影響は、信州では自由と個性の教育運動として教師たちの間に野火のように広がり、「信州白樺」が発刊されましたし(武者と柳は信州を数十回も訪れ交流した)、近代日本最高の版画家となった棟方志功は、若いとき「白樺」で紹介されたゴッホを見て、「日本のゴッホになる」と決意したのでしたし、そのデビューは、柳に見出されたことによるのです。

さまざまな分野への白樺派の影響は、「白樺山脈」と呼ばれるほど深く大きなもので、概略だけでも書くのは大変です。なお、彼らは、みな極めて個性的ですので、同じ類の作品を他の同人に見言い出すことは困難です。

同人誌「白樺」に集った学習院出身者は、確かに特権的階級でしたが、それゆえに「おぼっちゃん」でしかなかったとは、到底言えません。暗い世相に抗して生み出した文学は、はじめて全文を口語文で書いたものですが、それは、誰でもが親しく読める小説を書くことで「民・文学」の世界を切り開いたものですし、日常品の中に高級品にはない豊かな美を見出し、その思想を世界的なものにしたのが柳の「民芸」運動ですし、平等に基づく自由な表現生活を目がけたのが武者の新しき村=「民・生活」でした。日本最高のリート歌手であり、朝鮮の人々から「声楽の神様」とまで呼ばれた柳兼子は、その音楽も人生も情と愛に溢れたもので、戦時中は軍歌を歌うことを拒否したために活躍の場を奪われたのですが、まさに「民・声楽」「民・人生」の一生でした。

そこに、「甘さ」を指摘し、社会科学的分析の欠如(「おめでたき人」を地で生きた武者の理想主義は、大東亜戦争をすばらしきものと讃えてしまう愚をおかしました)を指摘するのは簡単ですが、暗く重い時代に人間性豊かな思想や数多くの先進的な世界の文化を紹介し(一例・ロダンとの交流で彼から彫刻が贈られたのですが、これが日本に入ったはじめてのロダン彫刻でした)、また、自ら個性豊かな人生を開き、新たな文化を創造した業績は、計り知れない大きさを持ちます。

その内容をどう評価するかは自由ですが、「白樺派」は、日本で起きた最大の文化運動だったのです。匹敵するのは「プロレタリア文化運動」だけですが、これは純然たる文化運動とは言えないでしょう。

以上、少し長くなりましたが、ご参考になれば幸いです。

(我孫子市白樺文学館初代館長・武田康弘)


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1 コメント

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Unknown (海津にいな)
2013-02-27 16:19:24
「苦労知らずのおめでたい人」が集まった仲良しクラブのようなもので、白樺派は好きじゃないと言われるたびに、悔しい思いだったのですが、 頭の中がすっきりしました。
「信州白樺」教師たちの一人は、柳の「ウイリアム・ブレイク」に圧倒され、柳に講演依頼をするなどがあったそうです。その後、弾圧の激化で解雇されたときに柳はリーチの仕事を手伝うように誘い、寄宿させて致そうです。風のない日に、窯の脇の工房が焼失したのは不思議なことだと志賀直哉は記録していますが・・・・。官憲への疑念が湧きます。

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