思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「真似っ子まんざい豆屋の小僧・・」「おまわり来い、裸で来い!こっちで罰金取ってやる~」= 神田っ子

2018-01-06 | 教育


「神田っ子」土門拳撮影

 

 わたしは、神田須田町の生まれですが、
幼稚園~小学1年くらいまで、外で毎日のように友達遊び、
そのとき、皆がよく歌っていたのが、「まねっ子まんざい、豆屋の小僧、豆がないから売れないよ~!
人のマネをする子を馬鹿にし、揶揄(やゆ)したのです。

 わたしのその後の人生は、今日までマネをしない生き方です。生活も仕事も活動も趣味も、人の真似をしない、オリジナルです。
それは、最高の悦びであり、同時に最高にリスクを負う生き方です。とてもタイヘンなのですが、慣れれば大丈夫(笑)却ってリスクがないとつまらなくなります。

 オリジナルですので、ヒドイ誤解を受けたり、曲解されて人が離れたりはよくあります。荒唐無稽な話をでっち上げられり、また、あんまり容易く人助けをするので、恩を恩とも感じないで、逆に悪口を言う(仇で返す)人まで続出。でも、まあ気にしない、却ってファイトの元ですから。

 写真一枚撮るにも、武田オリジナルです。人真似はしません。でもそれは、他者から学ばないのとは違います。10代20代の時は土門拳の写真をいやになるほど見、彼の文章は全部読みました。誰か知らない人の写真でも、これは凄い!と思うと、食い入るように何度も見ます。そこから学びます。でも、それらは肥となってしまい、原型はとどめません。真似はしないのです。わたし自身が心身全体で直接、感じ、想い、考える地点から新しく始めるのです。それには心身のパワーと臨機応変・当意即妙の精神が必要ですが、オリジナル精神がそれを可能にするので、グルグル回りです。

 もちろん、本業のフィロソフィーや教育は、みな武田オリジナルです。本も必要と判断すれば深く読みますが、言葉や文章に著された思想は、わたしの中で消化されてしまい、書物に頼ることはないのです。わたしは言葉を言葉のまま記憶することをしません、というより出来ないのです。言葉はイメージの世界に広がってしまい、形をなさないのです。

 真似をしない、オリジナルであること。神田っ子の心意気、こどもたちは、日本という真似が蔓延する社会(管理社会)の中で、そのつまらなさ、うさん臭さを実に的確に捉え、それを歌にしていたのだな~~~と今更ながら感動です。
 大人のツマラナさやインチキさを見抜くのはいつも子どもたち、「天晴れ!」だな。

 

 それからもう一つ
これは亡母の子どもころですので、戦前です。

 憲兵や警察官や将校など制服組が威張り、上から庶民を押さえつけていた時代です。
学校では、天皇陛下(神)の写真を毎日拝み、明治天皇に捧げられた「君が代」を歌い、歴史は、天皇の名前(神話上の人物もすべて現実と教えられていた)を覚えるのが一番で、上位者に従う「教育勅語」(明治天皇が臣民に下した道徳)の暗唱をし、国民は天皇の赤子であると教えられていました。

 そんな時代になんと神田っ子たちの遊びは、警察官をからかうものでした。
おまわり来い、裸で来い、こっちで罰金とってやる~~~!」と言い、わーっ と逃げたのだそうです。

 とんでもない迫害の時代、政府(岸信介や東条英機)やその番犬のような人間たちが威張りくさっていた時代、こどもたちは、まことに正しく、その悪=非人間性を感じ取り、勇気ある遊びをしていたのでした。
 神田っ子(だけではないでしょうが)、天晴れ!ですね~~~ うん、実に気分いい。


 

 

武田康弘

 

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