検察庁(特捜部)は、小沢一郎さんを陥れた【デッチ上げ事件】(森ゆうこさんの『検察の罠』を参照。元検事の前田さんが、検察幹部がいかにデタラメであるかを裁判で証言)により、恐ろしい「悪」を平然と行う組織(人間性に欠けた官僚の集まり)であることが明白になりましたが、
今回、釈放されたネパール人を犯人に仕立て上げたのも検察官。それに裁判官も追随していた(同じ穴のムジナ)のですから、わが国に「正義」はなく、あるのは【官僚の都合】だけということです。「そこのけ、そこのけ、官僚さんが通る」、受験知=パターン知人間の愚かさと恐ろしさ(ほんとうはバカなのに、頭がいいことにされている)ここに極まるです。
以下は、今朝の東京新聞・筆洗(一面、下段)です。
「無期懲役刑が確定していたネパール人のゴビンダ・プラサド・マイナリさんの再審開始がきのう決定した。一審無罪判決後の不当な勾留、「神様やってない」と日本語で叫んだ二審の逆転有罪判決、最高裁での上告棄却。日本の司法によって犯人に仕立て上げられた絶望の深さを思う。
『新証拠なんかじゃない。検察が隠し持っていたんですよ』。決定後の記者会見で昨年、再審無罪になった布川事件の桜井昌司さんが憤っていた。血痕が付着したコートなどの不利な証拠を出し渋り、DNA鑑定にも二の足を踏んだ検察の姿勢が冤罪(えんざい)を生んだのは明白だ。」
武田康弘
なぜ”個人の尊厳”を実現する法体系を学びながらこのような、検察が生まれたのでしょうか。一人一人を大事にするために考え出されたシステムだと学びました。
運用するのが人間である以上、無謬性には敏感に反応して注視しなくてはいけないと感じます。政治に関しても。
「民治主義」の社会では、役人は主権者=市民のサービスマンでなければならないのに、市民に秩序を与える特権者になっています。このおぞましい逆転が「官治主義」と呼ばれるものですが、
それを生みだしている深因は、客観主義(客観神話)にあるというのが私の見方で、以前に参議院の『立法と調査』に書きましたので、よろしければ見て下さい。
参議院ホームページ
http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2008pdf/20081128050.pdf