きぼう屋

生きているから生きている

キリストの体からはじまる

2010年12月26日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「キリストの体からはじまる」

2010年も終わろうとしています。
当教会をはじめ多くの活動体は4月年度であり、
年末を持って終わるわけではありませんが、
ここで区切りがないと
心身ともに落ち着かないのも事実です。

よって私たちは12月と3月に
それまでの歩みを想起し直す時を毎年持つことになります。
しかし悔い改めから始まる歩みを選ぶキリスト者にとっては、
想起する機会が多くなることは
同時に罪を想起し悔い改め、主に赦していただくことを意識するときが増えることであり、
うれしいことでもあります。

当教会は今年度も
「キリストの体」を意識し具体的にかたちにして生きることを
テーマとしています。

そこで私はこの区切りのときに次のことを考えています。

それは、
目の前に誰がいるのか、
が最も重大なことであり、
その具体的他者と私とが互いに必要とするところの
互いの言葉と表情と行動、そして沈黙と祈りとを、
主がを与えてくださることが恵みであり、
それにより互いに受容することが起こされ、
そこからすべてがはじまる、
という行為が意識されて実践されるときが来ている!
ということです。

教会も含め人間の集まりでは
「何」をするかが最も重要なケースが多く、
またその雰囲気に慣れている私たちも、
「何」のイメージを豊富に持ちます。

しかし、
聖書は「何を」よりも「誰と」を語ります。

例えば主イエスの奇跡物語を「何を」を中心に読むと、
業が最大の感心事となり、
業の結果をもって信じるというカルト信仰が生まれます。

しかし奇跡物語は、
主イエスが「誰と」共におられたか、
という部分が本当の奇跡であり、
主が共におられ全てを受容されているということが奇跡であり、

それが起こされるのが教会の交わりです。

「何を」という問い、
言い換えれば「やりたいこと」は
教会では二の次となります。

「誰と」共にいるのか、
その交わりの中で何を主がなされるのか、
という
「主のなさること」にかける歩みが
キリストの体を作り出します。

来年度は、ここを大きなポイントとして教会形成をしていきたいと思います。

「これやりたい」から「共にいたい」へ!

来年もよろしくおねがいします。