きぼう屋

生きているから生きている

不幸の元

2010年12月04日 | 「生きる」こと
本日はなんと二つ目の記事アップ!!
これくらい毎日余裕があるとうれしいですが・・・
そうもいかず・・・



不幸の原因

それはイメージを固めてしまっていること
と最近思います

イメージトレーニングなんていうのが流行してまして
たとえばスポーツなどでは結果を出すのに大変有効ということですが

それは
相手を無視して
自分の思うとおりにすることを
求められているときにのみ
有効である

ということだと思います

あるいは
相手が苦しもうが困ろうが悲しもうが死のうがこっちには関係ない!

というときに
イメージトレーニングでイメージを固めて
それが身体にも確実に作用するようにするのは役立つだろうと思います。

だからスポーツをはじめ
受験や就職活動やコンピューターゲームや
仕事で企画を勝ち取るためのプレゼンなど

そういうのではイメージトレーニングは効果があるのだと思います

しかし
そのような効果があるということは
同時に

どこかの誰かに
苦痛や悲痛を与え
さらに死に追いやっている場合も多いということです

しかししかし
あらゆる他者との出会いを想定してのイメージというものをつくることもあろうかと思います。

しかししかし
それがうまくいくような出会いなんてのは
所詮イメージ内のことであり
出会いなんて呼ぶことすらできないものであるわけで

出会うってことは
出会いによってイメージが粉々に破壊されて
その出会いで予期せぬ新しい事柄を得るということでありまして

だからこそ出会いはすごいのでありますが

イメージを持つことは
出会いを阻害するわけです

そしてすでにイメージを持つというのは人間の癖になっていると思います

なんでも先を勝手に予想してイメージとし
予想通りにいかないとイライラしたり逆に落ち込んだりしているのに

なおもイメージをつくることに再チャレンジしたりして
とっても変だと思います

すっごく不幸だと思います


幸せになりたければ
イメージをつくらなければいいわけです

つまり行き当たりばったりでいいわけです

でもただ単に行き当たりばったりでは
すべては動いていきません

ならば動くための原動力は何か


愛なのです


行き当たりばったりで動くために
常にぶち当たる出来事や他者を徹底的に愛するというところから
すべてが開始され
それゆえに
ぶち当たった出来事や他者を
そのありのままになにしろまずは受容することができて

ゆえにありのままを知り
ありのままを理解し

そこから丁寧にはじめることができるわけでありまして

なにしろ愛なのです


しかし

イメージ化という癖を持つ私たち人間は
相当に気をつけていなければ
自分で
ぶちあたる出来事や他者を
イメージ化します

そしてそのイメージから解放されなくなります
凝り固まります

当然イメージ化されたものは
所詮
人間の範疇の
しかもその人ひとりという人間の領域内のことで

とっても
おそろしいほどに強烈に
狭い
ことなので

実はすぐにイメージは崩されます

しかし不思議なことに
人間はそのイメージが崩されないために
今度はがんばりはじめます

それは

イメージが崩されないように
出来事や他者にぶちあたらないようにする
つまり
出会いを拒絶する

あるいは
イメージが壊れないための
イイワケとアリバイをどんどん用意する

なんてことをし始めまして

どんどんどんどん
中身の中心の本質から遠ざかっていきます。



イメージは知識と経験からつくられていきます

だからイメージは狭いものであっても
それをつくるのに長けている人は
新しい知識と経験をどんどんイメージに反映できます

するとイメージはどんどん変化していきますし
そういう人はわりかし自由で
失敗も少ない人生を歩むのだろうなあと思います


でもそれでもイメージはやっぱり狭いものです

愛に比べたら取るに足らないものです


でもでもでも

人は本当に相当に注意しないと
もっとくだらないイメージに凝り固まって
先述しているように
イメージを壊すものと縁を切るか
イメージが壊れないように徹底抗戦することを選びます

そこでは不思議なくらいに今あるイメージが中心なので
新しい知識や経験を取り入れる力がなくなります
そこでは
今あるイメージを補強できる知識と経験のみ採用されることになります

そして
そのようなイメージ化を癖としてしまったとき

人間は

不信から考え始めるようになります
批判、非難から考え始めるようになります

まず敵を想定するところから考えるようになります

そして孤独になります


本当に共に生きる仲間を失ってしまいます

孤独に陥ります

愛がなくなるから・・・


だから
ますます
自分のイメージどおりに行くというところで生きがいを見つけるようになり
それを壊す可能性のある場や出来事や他者からは逃げて

さらに孤独になり閉じこもり
愛を失います



でも実は
こういうブラックゾーンに落ちた中で
いろいろと議論したり
先を考えたり
結論を出したりすることが多いです


もったいない・・・・・・・・・・


愛し
信頼し
受容し

そこで

まったく新しい予期せぬ事柄がうごめき始め
さらに産み落とされ

まさに新しい命として

出来事が
場が
人間たちが

動き出す・・・・

これぞ出会い!!
そして正義!!


イメージ
これは不幸の元



これこそ幸の元

ただただ愛でもって
まっしろけっけのまま
出会うままに出会うなかで

新しく生まれるものに期待する


信仰的にはこれを
聖霊の働きと表現するわけだったんです


となると
教会は
キリストによりイメージが壊されるためにあるようなもんです

そりゃあそうなんですよお
十字架とか復活とか終末って

人間の枠をはるかに超えていて
イメージ不可能なものなのだから・・・・

信仰者・キリスト者のみなさん

共に信仰者・キリスト者として
義しく歩むことができるよう
祈ってまいりましょうね