きぼう屋

生きているから生きている

クリスマス礼拝へようこそ!

2010年12月18日 | 教会のこと
明日からの週の週報巻頭言です。
一日早いですが
日本バプテスト京都教会は
こういうことを思い描きつつクリスマスを迎えさせていただくことを
紹介させていただきます

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「クリスマス礼拝へようこそ」

クリスマスおめでとうございます。
今年も主イエスが生まれます。
救い主はなんと赤ん坊。
つまりクリスマスの秘密は、
最も弱い存在であり、一人では絶対に生きられず、
他者の助けなしには死んでしまう赤ん坊こそ
救い主であること!です。

神は聖書を通して
徹頭徹尾みんなで愛し合い分かち合い慰め合い支え合う
仲間として生きることを命じます。

神が命じる世界は、
一人で生きられず他者の助けで生きる赤ん坊も当然生きられます。

すなわち、
主イエスが赤ん坊で生まれたのは、
神によりすべての人が生きられる世界が起こされた!
という救いを示しているのです。

だから
神の世界にこだわり、信仰者は共に生きる世界をつくります。
それが教会です。

よって教会は共同体であり神による家族です。
だから私はみなさんにぜひとも教会で共に歩むことをお勧めします。

しかし教会は歴史上過ちを繰り返しています。
神は聖書にて、
共同体とは、
常に異質な他者
(異邦人、寡婦、孤児、貧困者、血縁者のない者、ホームレス、障がい者、病者、生活のため汚れていると言われる職を担う者、子ども)
に常に開かれており、
常に出会い、
本気で神の家族となり、
共に歩むものであると教えます。

しかし教会をはじめ、人はあらゆる共同体で、
閉鎖的となり、同質の者(似た価値観、経済状況、生活状況の者)が集い、
そうでない者を排除する歴史を繰り返します。

そして聖書の中身は
そういう排除に警鐘をならすかたちで書かれているものが実はほとんどです。

そして20世紀の戦争で
世界は共同体同士があそこまで殺しあうことを知りました。
同時にそこでの共同体では異質な者たちが同質化させられたこともあり、
その後人は共同体自体を危険視し、個人として生きることに躍起になりました。
その形態の行き詰まりが昨今の社会ではないでしょうか。

教会も、共同体形態をとっていても
個人と神との関係にこだわるようになり、
聖書とずれていきます。

すると自分と神とのつながりの感覚が救いと理解するようになります。

さらに教会も経済システムと一体化します。
つまり一人で生きる(自立する)ため他者との競争に勝ち、
そのために資格や技能を持つなどして経済的に自立することで一人前として認められ、
結婚でき、家庭をもつこともできる、
という暗黙のルールに縛られていきます。

日本の多くの教会が「一人前」の集まるところであったことは歴史が証明するところです。

また共同体であったとしても、
愛ではなく規則でまとまることを大切にした時代でもあります。

でもこれからはこの生き方で幸せは絶対に訪れません。

私たちにとっての幸せの近道は、
神が聖書で語るような、
異質な者と出会い続け、それにより愛を求め、さらに愛で自分も豊かに変化するという、
開かれた温かい共同体を得ることです。

だから繰り返しますが、
教会共同体として、
血はつながってなくとも神の家族として、
共に生きていきませんか。
ぜひ。