拝啓 夏目漱石先生

自称「漱石先生の門下生(ただのファン)」による日記

ギムナジウムには制服が無い、と知った時の衝撃…―『ポーの一族』

2008-05-31 03:00:03 | 漫画
小学6年の時、漫画『ガラスの仮面』がドラマ化された。ドラマを無駄に盛り上げまくるB'zの主題歌「Calling」も手伝い(?)人気を博し、作品の知名度を若い世代に一気に広げたテレビドラマ。私もドラマをきっかけに原作を読んだ。それまで少女漫画は『りぼん』掲載作品ぐらいしか読んだことがなかったため、70年代少女漫画の画風に初めは畏縮したが、気付けば作品の持つ強すぎる引力に導かれ、あっというまに既刊40巻(当時)を読破してしまった。引力…そう、あの時代の漫画が持つ、読み手を引き付けて止まない魅力は初体験だった。やがて『りぼん』の漫画では物足りなくなり、私は少女漫画クラシックスに手を出し始めた。その時出会った漫画で未だに印象深い作品、クラシック中のクラシックである、萩尾望都原作『ポーの一族』を、最近読み直した。
人の生き血とバラの花を好み、銀の十字架を恐れながら永久の時を生き続ける吸血鬼バンパネラ。彼らは気に入った人間に自身の血を送り込むことで、相手をバンパネラの仲間に加えることが出来る。基本的に不老不死だから、バンパネラになった時点でその人間の「時間」は止まる。主人公エドガーと、その妹メリーベルは、14歳で仲間に加えられ、永遠にその姿のまま生きることを余儀なくされたバンパネラだ。バンパネラは不老不死の怪物だが、銀製の杭を心臓に打ち込まれると砂になって消える。ナイフで切られても銃で撃たれても平気だが、ナイフや銃弾が銀製ならアウト。『ポーの一族』は、主人公たちがバンパネラとしての生をスタートさせた1700年代中盤から1976年までの200年余りの期間に起きた出来事の物語である。物語は時系列に並んでおらず、エピソードごとに時代を行ったり来たりする。一見、繋がりが薄いように思えるエピソード同士が、終盤で一気にまとまっていくのが圧巻。何度読んでも凄い構成だと思う。
19世紀末。ある事件がきっかけで愛する妹メリーベルを失ったエドガーは、同い年の少年・アランをバンパネラの仲間に加える。同い年と言っても、アランは普通の14歳だがエドガーは14歳の姿のまま100年以上も生きている。人間同士ならば出会うはずのない関係だ。『ポーの一族』は、こうした出会うはずのない関係がてんこもり。不老不死のエドガーたちの時間は止まっているが、彼らと関わる周囲の人々は普通に年をとって普通に死んでいくのだ。同じ場所に長く留まれば周囲に怪しまれるため、エドガーとアランは時に国境を越えて街を転々とする。いつか悲しい別れが来る事は明らかだから、人間と深く関わることは殆どしない。生き血に飢えたり、十字架を見て震えあがったりする度に、自分がアウトローな存在であること実感しながら、永久に生きていくバンパネラ…。
「明日もあさってもしあわせな 今日の日の続きだと信じていた」というエドガーのモノローグは、不老不死である彼の悲哀をストレートに表している。妖しくも儚げなルックスも相成って、多くの場面で悲壮感を漂わせるエドガー。しかし私はエドガーの生き様を少し羨ましくも思うのだ。200年以上も生き続けてきたエドガーは、常に普通の人間より数段高い所に居て、飄々とした態度で接する。接する相手が大人でも、生きてきた年数はエドガーの方が圧倒的に長いから、易々と手玉に取ってしまう。作中にいくつか登場する、若き日にエドガー達と関わった人間が数十年後、当時と変わらぬ姿の彼らと再会…みたいなエピソードは、アウトローな存在であるが故の悲哀と自由さが同時に感じられ、何度読んでも胸を打つ(バンパネラハンターの老人との再会シーン大好き)。また、作品の舞台となる18世紀中盤~20世紀のヨーロッパが辿った激動の時代も、不老不死というヘヴィな運命を背負ったエドガーにとってはどこ吹く風。「西ドイツ…西ねぇ…まえにきた時は東西にわかれてなかったのにな。ま…いいさ、これからどう変わるかも神のみぞ知る」なんて余裕発言、一度でいいから言ってみたいぞ。
そんな飄々とした、悟りの境地に達したようなエドガーに対し、バンパネラ歴の短い相棒のアランはいつまでたっても子供のまま。「短い」と言っても19世紀から生きてるわけだから少しくらい大人になっても良さそうな気がするが、エドガーにお守りされてるせいか、ドイツのギムナジウム(日本だと中学・高校にあたるのかな)に潜入したエピソードでは、同級生達とつまらん事でトラブルを起こしまくるという無邪気っぷりを発揮する。うん、こんな無邪気な相棒を連れて、送ってみたいぜバンパネラな人生…………うーん、やっぱどうかな?
 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿