移動性高気圧に日本列島が覆われて気持ちのいい秋晴れの散歩を楽しみました・台の宮公園のケヤキの古木の梢が高く逞しく秋晴れの空に伸びていました。


私はいつものようにこの碑の前に瞑目して静かに祈りを捧げました。この大きな碑の裏には一段に41名ずつ約20段(碑が高すぎてしかも暗くて正確には数えれませんでした)800名前後の方の氏名が刻まれているんです。

私はこの慰霊碑は戦後に建立されたもので、あの痛ましく悲惨な戦争でお亡くなりになった方の霊を悼み慰め、二度と再びこのような過ちは犯しませんという思いを込めて建立された慰霊碑だと思っています。
私は1927年(昭和2年)1月3日、大正が昭和と改元されて8日めに生まれ、18歳で太平洋戦争の終戦を迎えました。ですから私の記憶の中には淡いものからつい昨日のことのように鮮明なものの差はありますけど、満州事変・決起して時の政権の中枢にいた人を殺害した軍人らの515事件、あるいは軍隊をうごかして反乱を起こし政府の要人を殺し一時首都の一部を占拠した226事件、上海事変、支那事変、太平洋戦争とみんな記憶に残っているのです。それっらは必ずしても今は歴史として定説になってるものとは一致してはおりませんけど。
たとえば、軍隊を動かして反乱を起こし政府要人を襲って殺害し首都の一部占拠し後に銃殺された青年将校たちへの私の記憶は、東北地方の農民の窮状を救い、間違った政治をおこなっている政府を転覆し新しい日本を作ろうとした純粋で正義の人達であるとの思いになっているのです。決して私の回りが右翼的な雰囲気だったわけではありません。幼い私に父や母がそう教えたのでもありません。ただ母がとっていた雑誌にひとり一人の将校の写真が掲載されていてそのように英雄として記載されていて私がそれを読んで感激したということなんです。私が小学校4年の時でした。もちろん今の私はあの事件は決起した若い将校たちのの心情はどうあれ日本を旧陸軍が独裁し悲惨な戦争への舵を切ったとんでもない暴走だったと思いその黒幕だった人達を憎み嫌悪しております。
あの1941年12月から1945年8月までの太平洋戦争は私の15歳から18歳までの時でした。当時軍隊に召集されたのは19歳からでしたから私には軍隊の経験はありませんけどあの地獄のような時代のことはまるで昨日のことのように鮮明に記憶に残っています。いま90歳間もなくの私はあの太平洋戦争を体験したものの最後の生き残りの世代かも知れないと思っています。
ですから、この慰霊碑前に立つと悲しみ・懐かしみ・怒り・亡くなった人達への思いが胸いっぱいいに湧いて来るのです。
私は1945年(昭和20年8月終戦)4月から9月まで学徒動員ということで北海道十勝の大樹村(現在町)に援農作業隊としてそれぞれの家々に宿泊して農作業をしていました。馬など怖くてさわったこともない私が2頭立ての馬にプラウ(鋤)を引かせて広い畑地の耕耘をしていました。そして馬が可愛い友になっていました。私が馬小屋に近づくと「ヒヒーンjと喜んで迎えてくれるようなっていました。
その年の3月までは横浜の軍需工場で激しい空腹と寒さと衣服にいっぱいついているシラミに苦しみながら厳しい1日2交代の作業に耐えていました。私達の工場は小高い丘のそばにあって近くの山の中腹にはやがて空襲から避け工場を移転するための横穴の防空壕がありました。
B29の大編隊は富士山を目当てにしてやってきて東に向きを変え私達の頭上を通って横浜市や首都に向かっていきました。夜間に何十機もB29頭上を通る時近くにあった軍事基地の追浜(おっぱま)からのサーチライトに照らし出され高射砲が撃ち出されました。しかしその弾幕はあらぬところで暴発しB29にはなんの影響もありませんでした。
やがて首都や横浜が焼夷爆撃されその大火災になり上空が真っ赤に染まるのが見えました。でも私達の心や頭は毎日に厳しい作業、空腹、寒さに疲れ果て狂ってしまっていてその赤い色の空の下で何万人もの人達が苦しみもだえながら焼け死んでいることなどになんの思いも湧かずただぼんやりとあの空は夕焼けのように美しいなどと思っていたんです。人間らしい心などとうに死んでしまっていたんです。
そんなことですから十勝の援農生活は極楽のように平和で楽しいものでした。米のご飯は食べれませんでしたけど、モチキビのご飯は腹いっぱい食べられましたし、牛乳も魚もヒグマの肉も食べることが出来ました。私のお世話になっていたお宅には2歳と5歳の可愛い女の子がいて兄のように懐いてもくれました。私は家族の一員のよにして頂いて本当に幸せでした。
間もなく戦局が厳しくなり18歳の私たちも軍人にされるための徴兵検査と言うのを受けることになりました。体格体力を検査し軍人に適応の度合いを調べるのです。それは18歳の純真無垢な若者にとっては屈辱的な検査でもありました。素っ裸にされて腹ばいにされ肛門を見られ前を握られて性病の有無を調べられるのです。それは日本国民の男子は帝国軍人になるためには人間の小さな誇りなどなんの意味もないと無視されることの初めての体験でもありました。まるで牛や馬の検査と違わないようにも思われました。

でも兵役の義務は19歳からでした。その年の6月わたしたち仲間のリーダー株の一人に赤紙(軍隊の召集令状)が来ました。彼は6月に19歳になっていたのです。
彼はいつも誇らしげに「おれはやがて軍隊に入って予備士官学校に入隊し立派な士官になって国のために、自分の家族や郷里を守るために戦う」と言っていました。当時としては立派な日本国民の若者でした。
私たち仲間は軍隊に入隊するために帰郷すると言うことで汽車で出立するかれを大樹駅で送りました。「俺たちもすぐ征くからがんばって」とみんなで手をふって軍歌を歌い励ましました。列車が近づくとかれはふと上着で顔をかくして肩を振るわせていました。列車の窓から顔を出して我々を見る彼は涙でいっぱいでした。私たちの顔も涙でくしゃくしゃになっていました。あるいはこれが最後の友との別れかも知れないという思いに心がせかれるものがあったからなんです。でも、2ヶ月後には終戦でした。私たちはまた復学して机を並べて学ぶことが出来ました。
私は近ごろ「戦後の新憲法で個人の権利を強調しすぎた結果戦前の美風を失った。もう一度日本、美しい日本を取り戻すために現憲法を改正しなければならない」というような声を聞くことがあります。それはなにか古い時代を懐かしむ日本人の心に呼びかける甘い言葉のようにも聞こえます。でも私は違うと思います。
東北地方奥会津の貧しく小さい自作農に家に生まれ1945年(昭和20年)の終戦までを体験している私にとっては戦前の美風ってなんなのだろうか。なにを美風といっているのか考えてしまいます。
戦前の東北地方の農村のあちこちでは○○様といわれる大地主があってたくさんの小作農民を抱えていました。小作農民は苦労して育てた収穫の中から高額のの小作料を地主に支払なければなりませんでした。平年作の時はまあまあいいんですけど、東北地方では昭和の初期には度々冷害の凶作がありました。でも小作人は定めの小作料は地主に支払らなければなりません、生きるために小作人は自分の娘を身売りしなければなりませんでした。当時女衒(ぜげん)といわれれる商人はよい玉を見つけるために密かに貧しい小作人の間をまわって娘を買い取りその娘を遊郭に売っていました。
遊郭に売られた娘の中には年季が切れる前に梅毒などの性病や当時は不治の病といわれる結核などで命を落とす者も少なくなっかったと聞いています。悲惨なことですよね。娘たちは家族が生き残るためにはやむをえないことだと耐えていたのです。それを美徳の言えるんでしょうか。私はにはそんな悲惨なこが美徳などとはとうてい思えません。
戦後農地改革で小作農民はみな自立農民になリました。それは戦後の日本の復興に大きく役立ったと聞いております。そして人身売買で成り立っていた遊郭も禁止されて社会が明るくなりました。
戦前は国民皆兵ですべての男子は20歳になると徴兵検査を受け甲種乙種兵種に分けられて記録され平時は甲種合格者の中から撰ばれたものだけが兵役についていましたが戦時は赤紙で召集されたものはすべて理由の如何を問わず兵役につかなければなりませんでした。。
戦時中の陸軍大臣某が全国民に通達徹底したものに「戦陣訓」なるものがありました。その中に有名なものが二つあって全国民をしばり恐れさせました。
(1)上官の命令は朕(ちん)の命令と心得よ
朕とは当時の天皇陛下のことです。戦前は天皇陛下の命令は絶対でしたから、軍隊では上官の命令は絶対のものでそれに随わなければならないといううことでした。
それについて海軍では「海軍精神注入棒」と呼ばれる樫の棒がありました。陸軍には「鉄拳修正」と言うものがありました。海軍でも陸軍でも初めて軍隊に入ったものはどんな小さなミスでも見逃されず、またミスがたとえなくてもミスを言いがかりに下士官が兵を海軍では樫の棒で青痣ができるまで尻をなぐりつけ、陸軍では頬を鉄拳で「修正」と称して殴りつけました。それは上官のすることですからどんな理不尽なことであっても服従し耐えなければならないことでした。そのようにして戦いの主力である兵は下士官や士官の命令に絶対に随う忠順な兵に仕立てれていったと聞いております。
それが昭和20年頃の終戦間近になった時期、本土決戦などと叫ばれた頃には兵員の数が不足し40歳過ぎの者まで赤紙で召集され陸海軍の兵にされました。でもその頃はもう日本の戦力は枯渇していてその老兵たちに持たせる銃がありませんでした。若者のようにきびきびした動作の出来ない老兵をその息子たちの年齢の馬鹿な若い士官が老兵たちに鉄拳を加えながら小さなシャベルでたこつぼを掘らせその中に潜み爆薬を持って近づいて来る戦車のキャタビラの下に飛び込む訓練をしていたなどという話も聞いていました。でもそれは内地での訓練でしたし本土決戦などありませんでしたかたらまだいいいと思うのおです。命を落とすことはなく生きて復員できましたから・・
(2)死して虜囚の辱めを受かず死して汚名を残すことなかれ
つまりどんな絶望的な戦いの状況になっても捕虜になってはいけない。最後のときはバンザイ突撃をして戦死しななさい。もしこれにそむいて捕虜になるものがあれば本人はもちろん家族親類縁者まで非国民として罰せられるであろうということです。
私たちはサイパン島の戦いで軍隊がバンザイ突撃で全員が戦死玉砕したとき、米軍が撮影した民間人の女性が崖の上から抱いている子どもを先に海になげ落とし後に身をなげた映像を見ております。波打つ海に浮かび漂う子どもと母の姿も写されていました。このことは軍隊だけでなく民間人にまでこの命令は浸透していたことをものがたっております。
またニューギニアで食料弾薬の補給が途絶え敗残の兵となったものが敵の降伏の勧めに応じず密林の中をにげまどっているとき空腹のあまりニューギニア豚を撃って食べたという話を聞いたことがあります。これがなにを意味するかは私は知りません。でもニューギニアには野生の豚などはいなかったのは確かなんですよ。
おなじようなことはフィリピンのルソン島での敗残の戦を体験された大岡昇平氏の小説「野火」の映画化されたものでもおなじように敗残の日本兵同士が銃で撃ちあって殺し合いその肉を猿の肉と称して食べる場面がありました。でもこれは小説の物語でフィクションの世界ですから事実かどうかは定かではありません。
でもこの虜囚の辱めを受けずという戦陣訓のために捕虜になることを避けてバンザイ突撃で無駄な戦死をし、あるいは密林をさまよい逃げ惑い空腹や病気で死んでいったか兵がたくさんいたことは事実のように思います。
これらのことは私は軍隊の経験がありませんから聞き書きや他の書籍で知ったことが多く全部が真実とは言い切れない部分もあると思います。
でも私が生まれてから1945年(昭和20年)までの間に今の憲法で保障されている最も重要な基本的な人権が踏みにじられたことがたくさんありました。
戦前の日本には階級がそれぞれの場でありました。大地主と小作。そして戦前の日本には貴族・士族・平民・の別がありました。私の戦前の戸籍謄本にははっきりと平民と記録されていました。軍隊には将官・佐官・尉官・下士官・兵(上等兵・一等兵・二等兵)の階級がありました。
私には戦前の日本の美風と言われるものの思いはそれぞれの階級にっよって見方が違うような気がしてなりません。戦時中の軍隊の将校や下士官にとっては蛸壺の中で潜んでいて近かずいて来た敵の戦車のキャタビラの下に爆薬を持って飛び込み戦車を擱座させた兵は最高の美徳に見えたんでしょうし。私にとってはそのような兵に鉄拳や海軍精神注入棒で殴って鍛えあげた下士官や士官は許せない悪徳だと思うんですけど。いかがなものでしょうかね。

この台の宮公園には高さ4mに近いと思われる大きな黒い板状の石に刻まれた慰霊碑があるんです。

私はいつものようにこの碑の前に瞑目して静かに祈りを捧げました。この大きな碑の裏には一段に41名ずつ約20段(碑が高すぎてしかも暗くて正確には数えれませんでした)800名前後の方の氏名が刻まれているんです。

私はこの慰霊碑は戦後に建立されたもので、あの痛ましく悲惨な戦争でお亡くなりになった方の霊を悼み慰め、二度と再びこのような過ちは犯しませんという思いを込めて建立された慰霊碑だと思っています。
私は1927年(昭和2年)1月3日、大正が昭和と改元されて8日めに生まれ、18歳で太平洋戦争の終戦を迎えました。ですから私の記憶の中には淡いものからつい昨日のことのように鮮明なものの差はありますけど、満州事変・決起して時の政権の中枢にいた人を殺害した軍人らの515事件、あるいは軍隊をうごかして反乱を起こし政府の要人を殺し一時首都の一部を占拠した226事件、上海事変、支那事変、太平洋戦争とみんな記憶に残っているのです。それっらは必ずしても今は歴史として定説になってるものとは一致してはおりませんけど。
たとえば、軍隊を動かして反乱を起こし政府要人を襲って殺害し首都の一部占拠し後に銃殺された青年将校たちへの私の記憶は、東北地方の農民の窮状を救い、間違った政治をおこなっている政府を転覆し新しい日本を作ろうとした純粋で正義の人達であるとの思いになっているのです。決して私の回りが右翼的な雰囲気だったわけではありません。幼い私に父や母がそう教えたのでもありません。ただ母がとっていた雑誌にひとり一人の将校の写真が掲載されていてそのように英雄として記載されていて私がそれを読んで感激したということなんです。私が小学校4年の時でした。もちろん今の私はあの事件は決起した若い将校たちのの心情はどうあれ日本を旧陸軍が独裁し悲惨な戦争への舵を切ったとんでもない暴走だったと思いその黒幕だった人達を憎み嫌悪しております。
あの1941年12月から1945年8月までの太平洋戦争は私の15歳から18歳までの時でした。当時軍隊に召集されたのは19歳からでしたから私には軍隊の経験はありませんけどあの地獄のような時代のことはまるで昨日のことのように鮮明に記憶に残っています。いま90歳間もなくの私はあの太平洋戦争を体験したものの最後の生き残りの世代かも知れないと思っています。
ですから、この慰霊碑前に立つと悲しみ・懐かしみ・怒り・亡くなった人達への思いが胸いっぱいいに湧いて来るのです。
私は1945年(昭和20年8月終戦)4月から9月まで学徒動員ということで北海道十勝の大樹村(現在町)に援農作業隊としてそれぞれの家々に宿泊して農作業をしていました。馬など怖くてさわったこともない私が2頭立ての馬にプラウ(鋤)を引かせて広い畑地の耕耘をしていました。そして馬が可愛い友になっていました。私が馬小屋に近づくと「ヒヒーンjと喜んで迎えてくれるようなっていました。
その年の3月までは横浜の軍需工場で激しい空腹と寒さと衣服にいっぱいついているシラミに苦しみながら厳しい1日2交代の作業に耐えていました。私達の工場は小高い丘のそばにあって近くの山の中腹にはやがて空襲から避け工場を移転するための横穴の防空壕がありました。
B29の大編隊は富士山を目当てにしてやってきて東に向きを変え私達の頭上を通って横浜市や首都に向かっていきました。夜間に何十機もB29頭上を通る時近くにあった軍事基地の追浜(おっぱま)からのサーチライトに照らし出され高射砲が撃ち出されました。しかしその弾幕はあらぬところで暴発しB29にはなんの影響もありませんでした。
やがて首都や横浜が焼夷爆撃されその大火災になり上空が真っ赤に染まるのが見えました。でも私達の心や頭は毎日に厳しい作業、空腹、寒さに疲れ果て狂ってしまっていてその赤い色の空の下で何万人もの人達が苦しみもだえながら焼け死んでいることなどになんの思いも湧かずただぼんやりとあの空は夕焼けのように美しいなどと思っていたんです。人間らしい心などとうに死んでしまっていたんです。
そんなことですから十勝の援農生活は極楽のように平和で楽しいものでした。米のご飯は食べれませんでしたけど、モチキビのご飯は腹いっぱい食べられましたし、牛乳も魚もヒグマの肉も食べることが出来ました。私のお世話になっていたお宅には2歳と5歳の可愛い女の子がいて兄のように懐いてもくれました。私は家族の一員のよにして頂いて本当に幸せでした。
間もなく戦局が厳しくなり18歳の私たちも軍人にされるための徴兵検査と言うのを受けることになりました。体格体力を検査し軍人に適応の度合いを調べるのです。それは18歳の純真無垢な若者にとっては屈辱的な検査でもありました。素っ裸にされて腹ばいにされ肛門を見られ前を握られて性病の有無を調べられるのです。それは日本国民の男子は帝国軍人になるためには人間の小さな誇りなどなんの意味もないと無視されることの初めての体験でもありました。まるで牛や馬の検査と違わないようにも思われました。

でも兵役の義務は19歳からでした。その年の6月わたしたち仲間のリーダー株の一人に赤紙(軍隊の召集令状)が来ました。彼は6月に19歳になっていたのです。
彼はいつも誇らしげに「おれはやがて軍隊に入って予備士官学校に入隊し立派な士官になって国のために、自分の家族や郷里を守るために戦う」と言っていました。当時としては立派な日本国民の若者でした。
私たち仲間は軍隊に入隊するために帰郷すると言うことで汽車で出立するかれを大樹駅で送りました。「俺たちもすぐ征くからがんばって」とみんなで手をふって軍歌を歌い励ましました。列車が近づくとかれはふと上着で顔をかくして肩を振るわせていました。列車の窓から顔を出して我々を見る彼は涙でいっぱいでした。私たちの顔も涙でくしゃくしゃになっていました。あるいはこれが最後の友との別れかも知れないという思いに心がせかれるものがあったからなんです。でも、2ヶ月後には終戦でした。私たちはまた復学して机を並べて学ぶことが出来ました。
私は近ごろ「戦後の新憲法で個人の権利を強調しすぎた結果戦前の美風を失った。もう一度日本、美しい日本を取り戻すために現憲法を改正しなければならない」というような声を聞くことがあります。それはなにか古い時代を懐かしむ日本人の心に呼びかける甘い言葉のようにも聞こえます。でも私は違うと思います。
東北地方奥会津の貧しく小さい自作農に家に生まれ1945年(昭和20年)の終戦までを体験している私にとっては戦前の美風ってなんなのだろうか。なにを美風といっているのか考えてしまいます。
戦前の東北地方の農村のあちこちでは○○様といわれる大地主があってたくさんの小作農民を抱えていました。小作農民は苦労して育てた収穫の中から高額のの小作料を地主に支払なければなりませんでした。平年作の時はまあまあいいんですけど、東北地方では昭和の初期には度々冷害の凶作がありました。でも小作人は定めの小作料は地主に支払らなければなりません、生きるために小作人は自分の娘を身売りしなければなりませんでした。当時女衒(ぜげん)といわれれる商人はよい玉を見つけるために密かに貧しい小作人の間をまわって娘を買い取りその娘を遊郭に売っていました。
遊郭に売られた娘の中には年季が切れる前に梅毒などの性病や当時は不治の病といわれる結核などで命を落とす者も少なくなっかったと聞いています。悲惨なことですよね。娘たちは家族が生き残るためにはやむをえないことだと耐えていたのです。それを美徳の言えるんでしょうか。私はにはそんな悲惨なこが美徳などとはとうてい思えません。
戦後農地改革で小作農民はみな自立農民になリました。それは戦後の日本の復興に大きく役立ったと聞いております。そして人身売買で成り立っていた遊郭も禁止されて社会が明るくなりました。
戦前は国民皆兵ですべての男子は20歳になると徴兵検査を受け甲種乙種兵種に分けられて記録され平時は甲種合格者の中から撰ばれたものだけが兵役についていましたが戦時は赤紙で召集されたものはすべて理由の如何を問わず兵役につかなければなりませんでした。。
戦時中の陸軍大臣某が全国民に通達徹底したものに「戦陣訓」なるものがありました。その中に有名なものが二つあって全国民をしばり恐れさせました。
(1)上官の命令は朕(ちん)の命令と心得よ
朕とは当時の天皇陛下のことです。戦前は天皇陛下の命令は絶対でしたから、軍隊では上官の命令は絶対のものでそれに随わなければならないといううことでした。
それについて海軍では「海軍精神注入棒」と呼ばれる樫の棒がありました。陸軍には「鉄拳修正」と言うものがありました。海軍でも陸軍でも初めて軍隊に入ったものはどんな小さなミスでも見逃されず、またミスがたとえなくてもミスを言いがかりに下士官が兵を海軍では樫の棒で青痣ができるまで尻をなぐりつけ、陸軍では頬を鉄拳で「修正」と称して殴りつけました。それは上官のすることですからどんな理不尽なことであっても服従し耐えなければならないことでした。そのようにして戦いの主力である兵は下士官や士官の命令に絶対に随う忠順な兵に仕立てれていったと聞いております。
それが昭和20年頃の終戦間近になった時期、本土決戦などと叫ばれた頃には兵員の数が不足し40歳過ぎの者まで赤紙で召集され陸海軍の兵にされました。でもその頃はもう日本の戦力は枯渇していてその老兵たちに持たせる銃がありませんでした。若者のようにきびきびした動作の出来ない老兵をその息子たちの年齢の馬鹿な若い士官が老兵たちに鉄拳を加えながら小さなシャベルでたこつぼを掘らせその中に潜み爆薬を持って近づいて来る戦車のキャタビラの下に飛び込む訓練をしていたなどという話も聞いていました。でもそれは内地での訓練でしたし本土決戦などありませんでしたかたらまだいいいと思うのおです。命を落とすことはなく生きて復員できましたから・・
(2)死して虜囚の辱めを受かず死して汚名を残すことなかれ
つまりどんな絶望的な戦いの状況になっても捕虜になってはいけない。最後のときはバンザイ突撃をして戦死しななさい。もしこれにそむいて捕虜になるものがあれば本人はもちろん家族親類縁者まで非国民として罰せられるであろうということです。
私たちはサイパン島の戦いで軍隊がバンザイ突撃で全員が戦死玉砕したとき、米軍が撮影した民間人の女性が崖の上から抱いている子どもを先に海になげ落とし後に身をなげた映像を見ております。波打つ海に浮かび漂う子どもと母の姿も写されていました。このことは軍隊だけでなく民間人にまでこの命令は浸透していたことをものがたっております。
またニューギニアで食料弾薬の補給が途絶え敗残の兵となったものが敵の降伏の勧めに応じず密林の中をにげまどっているとき空腹のあまりニューギニア豚を撃って食べたという話を聞いたことがあります。これがなにを意味するかは私は知りません。でもニューギニアには野生の豚などはいなかったのは確かなんですよ。
おなじようなことはフィリピンのルソン島での敗残の戦を体験された大岡昇平氏の小説「野火」の映画化されたものでもおなじように敗残の日本兵同士が銃で撃ちあって殺し合いその肉を猿の肉と称して食べる場面がありました。でもこれは小説の物語でフィクションの世界ですから事実かどうかは定かではありません。
でもこの虜囚の辱めを受けずという戦陣訓のために捕虜になることを避けてバンザイ突撃で無駄な戦死をし、あるいは密林をさまよい逃げ惑い空腹や病気で死んでいったか兵がたくさんいたことは事実のように思います。
これらのことは私は軍隊の経験がありませんから聞き書きや他の書籍で知ったことが多く全部が真実とは言い切れない部分もあると思います。
でも私が生まれてから1945年(昭和20年)までの間に今の憲法で保障されている最も重要な基本的な人権が踏みにじられたことがたくさんありました。
戦前の日本には階級がそれぞれの場でありました。大地主と小作。そして戦前の日本には貴族・士族・平民・の別がありました。私の戦前の戸籍謄本にははっきりと平民と記録されていました。軍隊には将官・佐官・尉官・下士官・兵(上等兵・一等兵・二等兵)の階級がありました。
私には戦前の日本の美風と言われるものの思いはそれぞれの階級にっよって見方が違うような気がしてなりません。戦時中の軍隊の将校や下士官にとっては蛸壺の中で潜んでいて近かずいて来た敵の戦車のキャタビラの下に爆薬を持って飛び込み戦車を擱座させた兵は最高の美徳に見えたんでしょうし。私にとってはそのような兵に鉄拳や海軍精神注入棒で殴って鍛えあげた下士官や士官は許せない悪徳だと思うんですけど。いかがなものでしょうかね。
世界史は過去のものはなく、繰り返されています。
戦争のせの字も知らない若い大臣が薄っぺらな思想で語っています。
戦争体験者がいなくなって、またきっと戦争を繰り返します。
人間は、おろかです。
さんたろうさんの失われた人生を尊く受け止めています。
たま~に戦争の悲劇、愚かさに涙しますが、数日前のラジオ深夜便「明日への言葉」で
「詩にこめた銃後の叫び声を聞け」を聞いたところです。
http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/c337c910140ccac2e4bdf3fa73cc3a32
辛い時代を生きた先人に感謝しながら、小さな自然を眺めています。
子供でしたが帰郷した兵隊さんから従軍慰安婦の話も聞いています、何事も戦争さえしなければ無かったことですね。
上州の八十爺
木村迪夫詩集をアマゾンに発注しました。今は中古本しかないんですね。来るのを楽しみにしております。
私より4歳お若くいらっしゃる 、すると中学2年生の頃終戦を迎えられたんですね。あの頃は学業より奉仕作業のほうが大事な時代でした。ご苦労なさったことと思います。
ほんと、平和が一番大事ですね。先進国の中で71年間も弾丸を撃たず撃たれなかった国は日本だけです。有り難いことだと思っているんです。
父も横浜にある航空機用のバネ工場に動員され、毎日粗悪なバネを作っていたそうです。
バネの材料は供出された鍋釜農具等で、それらを溶かして質の悪いカスカスしたような鉄材を作り、それでバネを作っていたそうです。材料が非常に質が悪い上、バネを作るのは熟練工とは程遠い師範学校生の父たち。
出来上がった航空機用のバネは素人目に見てもゆがんだり間延びしたりしているものばかりだったとのこと。こんなものを使った飛行機が本当に飛べるんだろうかと、友人たちと密かに話していたそうです。
終戦直前には、なぜか父たち師範学校生が「スパイである」として逮捕されたそうです。3か月間ムショ暮らししているうちに、釈放されたら終戦だったそうです。
怖ろしい話だと思いました。
お父上様と私が一日違いの同い年、そして同じ横浜で学徒動員で軍需工場で働いていた、なんかとっても嬉しいです。
もしお会いしてお話できれば「そうだったよな、そうだったよな」と話し合えることがいっぱいだと思うんです。
17歳、18歳の戦時中は人間性を無視された苦しみのどん底の生活でした。でも18歳の若者です楽しいこと、ときめくことだってないはずはないんですよ・・
激しい怒りが湧いてきます。スパイ容疑で3ヶ月ものむしょ暮らし。どうして18歳の若者があの厳しい時代にスパイなど出来たというんですかね。あの時代にはバカで狂信的な鬼のような偽忠義者の特別高等警察、特高といわれるものがおりました。また卑劣な密告者もいました。ありもしないことをでっち上げ人をおとしめて自分の手柄にしたやからです。私のいた軍需工場では熟練工が仕事をしていたときには月産300のゼロ戦の機関砲を作っていました。熟練工がみんな軍隊にとられ学徒が生産ラインついてからは弾丸のでる機関砲はなくなりました。そのことはどこからか聞こえてきて学徒はみな知っていました。もしそのことを学徒どうしで話し合っていたことを密告などで特高に知れればすぐにスパイ罪にされたでしょうね。特に終戦間近のころはみんな狂っている恐ろしい時代でしたから。
私は今の時。日本は大きな変革の時にあるように思えてなりません。たくさんの人がいろんな思いを述べていることが聞こえてきます。あの狂ったような悲惨な戦争を体験している私ですけど正直私に思いは定まりません。家内などそれぞれのニュースなどでいろんな思いを述べるんですけど、私は黙して語りません。自分の考えが揺れ動いているんです。
人類は、人類を滅亡させるに充分の核を手にしています。ピンポイトのよな目標に正確に到達させることのできるミサイルをもっています。そしてそれぞれの国ではその国のエr-ト中のエリートをあつめ多額の資金をつかって核とミサイルの改良を研究しています。はたして人類は人類を滅亡させない英知を持っているんでしょうか?
私にはいろんなニュースや主張が聞こえてきますけど私には思いが定まりません。せめて自分の心うつもの、美しいと思うもの、それは小さくささやかでいいいんです、それをもとめて残り少ない生を生きようとは思ってはいるんですけど、なかなか・・難しいです。