会津の歴史のことなどなにも知らない私ですけども、「羽黒山城跡入口」とあるこの標識を見て心が揺さぶられ行って見たいなと思ったのです。
>案内・解説の標示を見ると
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戦国時代、会津を治めた葦名盛氏が築城し
北の風雲児伊達正宗、蒲生氏郷がそれぞれ重要な要衝として改修を加え
、上杉景勝・直江兼続主従が徳川家康の会津攻めに供えて最後の砦とした
日本最大級「向羽黒山城」とありました
。この向羽黒山城跡を含めた白鳳三山の地域が県立白鳳山公園に指定されているのです。
白鳳山公園の入口です。この舗装された車が通れる道が公園の中に通っており広い駐車場もあります。でも通常は車の通行は禁止されております。正面に見える山は白鳳三山の内の観音山だと思います。
舗装の道を少し登ると標識があって観音山への遊歩道が舗装道路から左に分かれます。久しぶりの山の道です。嬉しくて一歩一歩踏みしめてゆっくりと登りました。
しばらく急な斜面の道を登ります
すると鳥居があって神社がありました「大山神社」です。今日の山道散策が無事に終わるようお祈りしました。
またしばらく急な斜面の遊歩道を登りました。
観音山頂きの広場に出ました。馬頭観音堂跡の広場です。
この場所には昭和44年(1965)までは3間4面の馬頭観音堂があって昭和20年(1945)までは旧暦4月8日に会津地方で飼育されている農耕馬が子どもの打ち鳴らす板鐘と、馬につけた鈴の音で賑々しく登ってきて参拝したとあります。この広場が参詣の馬と人でいっぱいになったんでしょうね。
この広場の見晴らしのいい場所に小さな東屋があり本郷町の眺望を楽しむことが出来ました。
遊歩道は観音山を下って舗装道路に出て、また羽黒[山頂]への遊歩道に続きました。
羽黒山の山頂です。
羽黒山からの眺望です。
羽黒山神社への石段です。石段は写真の石段の上部から上にこの2倍ほどの石段が続いていました。石段の数はおそらく数百段はあると思いました。
羽黒山神社は意外に小さなおやしろ(社)でした。
私は残された私の命がすこやかに過ごせるようお祈りし明るい気持ちで長い石段を下りました。
岩崎山の舗装された道路をしばらく南に登っていくと向羽黒山城の三の丸入り口につきました。
三の丸からの眺望です。
三の丸から少し道を下ると源平沼と呼ばれていた小さな池がありました。
池の澄んだ水が周りの林を写して綺麗でした。
山城にとって水の手は重要な場所だったと思います。三の丸で厳しい調練をした武士や馬たちの大事な休憩所、安らぎの場所だったんでしょうね。
ベンチの腰掛けてサンドウィッチと牛乳で昼食をとりました。周りは誰もいません私独りの静かな源平沼でした。
源平沼から急な斜面の道が二の丸跡に続いていました。
二の丸跡の広場です。
土塁に囲まれた平らな場所や、空堀などがあちこちにありました。
二の丸跡を見回って時刻は午後1時間30分、白鳳山公園の散策を始めたのは午前10時前です。3時間半の山の道の散策でした。観音山・羽黒山・向羽黒山城跡のある岩崎山の遊歩道のアップダウン、少々疲れました。見たいところはいっぱい残っています。盛氏屋敷と伝えれている北曲輪や御茶屋跡・本丸・水手曲輪・家臣団屋敷跡など、でももう疲れて回る余力はなくあきらめて帰ることにしました。
こういう大事な場所はふらりと思い立っての散策は無理だったと思い知りました。詳しい方の解説をお聞きしながら案内して頂かなければならないのです。いつかそのような催しがあるかも知れません。そのような機会があったらもう一度回ってみたいと思いました。
疲れた1日でしたけど、それなりに充実した1日でした。
先日のさんたろうさんの投稿で私も気になっていたのですが、早速登られたのですね。
葦名盛氏は居城していた若松城は平城ということもあって、もちろん戦略もあったことでしょうが、このような山城に憧れていたのかも知れませんね。
当時は、両方のお城からお互いが確認できたことでしょう。
私もいつかは訪れてみたいものです。
でも心残りは向羽黒城跡のある岩崎山にちょっと足を踏み入れたばかりで終わったことです。紅葉の頃にでも古城の散策中心に訪れるつもりです。
帰宅して改めて調べてみると岩崎山全体が古城遺跡になっているようです。標高408mの岩崎山頂の本丸跡が楽しみです。
今は進入禁止なのでしょうね
その時にわたしの故郷の山裾が見えて感動したのは
随分と昔のこととなりました
お天気の良い時でよかったですね
松の陰になってみえませんが
三の丸からの眺めの先はわが生家の辺かな
と
思いを馳せて見させていただきました
三の丸からの広々とした眺望も見事でした。七器さんのご実家もあの眺めの中にあるんですね。本当に美しい眺めでした。
秋には地理をよく調べて大手口から登って本丸跡その他の古城遺跡を尋ねたいと思っています。