桜といえばソメイヨシノですよね。美しく豪華に咲き誇る桜です。公園で、お城で、川端の堤の道で、絢爛と咲いて人々の心を楽しませてくれます。青いシートを敷いて皆さんお揃いで花見の宴などは春いっぱいの幸せですね。

でも、私は里山の林の中にひっそりと咲く山桜の花がゆかしいのです。
遠い昔、私が小学校3年の頃だったと思います。80年ほども昔のことですけど私はハシカ(痲疹)にかかりました。今はハシカのワクチンがだできてハシカの病いはなくなりましたけど、当時はほとんどの子供がかからなければならない命定めの病でした。
風邪の症状から高い熱が続きやがて顔やからだ一面に赤い発疹ができて治癒するのです。その頃は医師の先生を医者殿と呼んで敬っておりました。医者殿は3里(12km)も離れた所にいらっしゃって往診などはしてもらえません。ひたいに辛子大根おろしをぬってひたすら濡れ手ぬぐいで冷やして耐えるのが治療でした。
熱に浮かされて細い目を開けるといつでも父か母の心配そうな顔があって安心してまた眠るのです。10日ほど病に耐えているとやがて熱も下がってくるのです。父はそんな私を抱き上げて窓を開けて後ろの山の林を見せてくれました。
鮮やかな薄紅色の山桜があちこちに咲いていました。嬉しかったんです。そして父の嬉しそうな顔が嬉しかったんです。

この前里山の道を散策していると、山桜が咲き初めていました。まだ数輪だけの開花でしたけれど楚々としたこんな美しい花なんですよ。


子供の頃住んでいた集落の隣村の檜枝岐村にはその技法があって曲げわっぱ(薄い檜の板を曲げて作った入れ物)の継ぎ目の止めに美しい桜皮が使われていました。私たち子供はそれを知っていました。私たちはみな肥後の守という安物のナイフをみな持っていました。自分で美しく研ぎ上げて輝いていて切れ味もよかったのです。
その肥後の守を使って山桜の皮をきれいに磨きあげ、鉛筆入れなどに張ったり指輪を作ったりして競いあっていました。小学校3、4年の男の子の自慢の技でした。
山深い私の集落には当時はまだソメイヨシノは入っていませんでした。桜と言えば山に咲く山桜なんです。山に密やかに咲く山桜は私のだいじなだいじな思い出の泉の桜なんです。懐かしいんです。

でも、私は里山の林の中にひっそりと咲く山桜の花がゆかしいのです。
遠い昔、私が小学校3年の頃だったと思います。80年ほども昔のことですけど私はハシカ(痲疹)にかかりました。今はハシカのワクチンがだできてハシカの病いはなくなりましたけど、当時はほとんどの子供がかからなければならない命定めの病でした。
風邪の症状から高い熱が続きやがて顔やからだ一面に赤い発疹ができて治癒するのです。その頃は医師の先生を医者殿と呼んで敬っておりました。医者殿は3里(12km)も離れた所にいらっしゃって往診などはしてもらえません。ひたいに辛子大根おろしをぬってひたすら濡れ手ぬぐいで冷やして耐えるのが治療でした。
熱に浮かされて細い目を開けるといつでも父か母の心配そうな顔があって安心してまた眠るのです。10日ほど病に耐えているとやがて熱も下がってくるのです。父はそんな私を抱き上げて窓を開けて後ろの山の林を見せてくれました。
鮮やかな薄紅色の山桜があちこちに咲いていました。嬉しかったんです。そして父の嬉しそうな顔が嬉しかったんです。

この前里山の道を散策していると、山桜が咲き初めていました。まだ数輪だけの開花でしたけれど楚々としたこんな美しい花なんですよ。

桜皮細工の技法をご存じですよね

写真はネットで角館の桜革細工からお借りしました
子供の頃住んでいた集落の隣村の檜枝岐村にはその技法があって曲げわっぱ(薄い檜の板を曲げて作った入れ物)の継ぎ目の止めに美しい桜皮が使われていました。私たち子供はそれを知っていました。私たちはみな肥後の守という安物のナイフをみな持っていました。自分で美しく研ぎ上げて輝いていて切れ味もよかったのです。
その肥後の守を使って山桜の皮をきれいに磨きあげ、鉛筆入れなどに張ったり指輪を作ったりして競いあっていました。小学校3、4年の男の子の自慢の技でした。
山深い私の集落には当時はまだソメイヨシノは入っていませんでした。桜と言えば山に咲く山桜なんです。山に密やかに咲く山桜は私のだいじなだいじな思い出の泉の桜なんです。懐かしいんです。
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