
会津の盆踊りと言えば「会津磐梯山」が思い浮かびますけど、それだけじゃあないんですよ。それぞれの集落では古くから伝わるそれぞれの集落の甚句が歌われ踊られています。
私たちの町の青津甚句もそのひとつです。町の重要無形民俗文化財に指定され、保存会の皆さんを中心に子供の頃から笛を習い太鼓を習い歌や囃子や踊りを習い、今もしっかり伝えられてお盆の8月14日に踊られています。

櫓太鼓に笛のお囃子が懐かしく心に心に響きます

美しい声の歌い手さんです。懐かしい甚句の歌の文句が張りのある声で次々に歌われます

櫓の上には中学生がいっぱいいて太鼓を打ち笛を吹いています。伝統を習ってしっかりと受け継いでいるんですね

いま農村の集落では若者や子どもの数は激減しています。だから踊りの輪は決して大きくはありません。でも保存会のみなさんを中心に優雅に楽しく踊りが続いています



青津の集落には4世紀後半と云われる亀ガ森古墳と鎮守が森古墳があります。
亀ヶ森古墳は全長127メートルの前方後円墳で福島県最大、そして東北地方でも第2の規模を誇る大きな古墳です。鎮守が森古墳は少し小さく55メートルの前方後円墳です。

亀ガ森古墳の航空写真です。会津坂下町史から借りました
今年度の文部大臣賞を受賞された私たちの町の考古学・歴史・民俗学の偉大な先生の古川先生からこんな話しを聞いたことがあります。
「会津の地名は、3世紀頃、四道将軍の大彦命(オオヒコのみこと)が北陸道から、子の建沼河別命(タケヌナカワワケのみこと)は東山道から遠征して出会ったところが「相津」というと『古事記』に記載されている。「相津」→「会津」→「青津」と考えて見るとあるいは青津が四道将軍の出会ったところは青津だったのかもしれない」
東北第2の規模をもつ亀ガ森古墳の巨大な姿と鎮守が森古墳、そして日本の最古の歴史書「古事記」の会津の地名伝説から考えて遠い青津の歴史の因元を思わずにはいられません
また江戸時代に集落西の丈助橋のたもとに大きな菜種油の搾油場を作りその油を鶴沼川から舟や馬で越後に送りやがて大阪・江戸までも届けた豪商小池丈助のことも忘れることが出来ません。江戸時代菜種油は灯火の油としてとても大事なものだったんですね。
今でも丈助の名は鶴沼川にかかる丈助橋や小池野の地名に残っています。
また青津甚句の文句を拾って見ますと
揃たそろたよおどり子が揃た稲の出穂よりよくそろた
青津館から横前見ればつなぎそろえたお米舟
青津は広い水田の豊かな米作地帯でたくさんの産米が舟で輸送されていたことがわかります。
嫁に来るなら青津をやめろ藍とからしで殺される
青津は稲作だけでなく、藍やからし(搾油の原料の菜の花)が重要な作物として栽培されていたことがわかります。
踊りおどらばしなよくおどれ しなのよい娘を嫁にとる
豊かな青津はきれいな嫁御のいい嫁ぎ先だったんでしょうね
音頭とる奴が橋からおちた流れながらに音頭とる
川に落ちて流れても音頭取りをやめない粋な青津の若衆ですね
月はまんまる踊りもまるい ぬしとわたしも まるい仲
月の出会いと定めて来たが月は早よ出て森の中
青津甚句の踊りの夜は若い男と娘の出会いの楽しい場所でもあったんでしょうね。
それにしても、月が早く出て明るくなってしまった、それでは二人で森にいこう」これはどういう意味なのかは私にはよくわかりません。
こんなふうに考えて見ると、青津は古い歴史をもち、稲作や藍や芥子菜の栽培、それに菜種油の搾油と越後との交易に支えられたに豊かな集落だったことがわかります。青津甚句にはそのような伝統と集落の誇りがあって踊り継がれてきたんだと思います。
楽しい青津甚句の夜でした。いろいろな思いを胸に踊りのお囃子をうしろに聞きながら夜の道を楽しい思いで家に帰りました。青津甚句保存会の皆様、青津の皆様ありがとうございました。
菜種油で利益を上げた豪商のお話も、青津甚句の文句も、とても興味深く拝読しました。
古い文化に豊かな産業、しっかりもののきれいなお嫁さんを迎えて、当時の生活ぶりも彷彿とさせられるようです。
「川に落ちて流されても音頭取りを止めない」、面白いです~。
月夜はロマンですね~。
大きな町りでもその担い手は不足しているようです。
保存会の皆さんを中心に、受け継がれていくといいですね。