東京の景色が意外にいい。
一年前だったとは、もっと昔のような気がする。
東京の景色が意外にいい。
一年前だったとは、もっと昔のような気がする。
ときどき行ってみたくなるのが人形町だ。
商店街としては洗練されている。
仲間と一杯やるのもこの街がいい。
ちょっと高めなのが気になるが。
話は変るが、谷崎潤一郎の生れたのが、この人形町だ。
千葉の東金
とまりぎ
アクアラインを越えて、千葉県へ行くことにした。
スタート時間がちょっと遅かったため南房総への道をあきらめ、東金への道へ入る。
途中、高滝湖へ寄ってトイレ休憩。
工事中のようで、これから大きくなるのだろうが、トイレだけしかないところだ。
東金はもう十年ほど前に、九十九里を北から南へ通り抜けたことがあったが、新しい道ができて雰囲気も変っていた。
海岸の近くで、「そば処桜田」の看板を見つけて入る。
座敷には貸切の客が入ってきて、椅子席へ入る。
あなご天ざるを頼む。
蕎麦の茹で方は丁度いい。つなぎの小麦が多い感じだが、満腹になって満足。
海岸近くを北へ走る。
駐車場を見ると、集金人がこっちを見ているのと、乾燥していて砂埃を巻き上げているのがいやになって、通り抜ける。
千葉への道を行くと、野呂PAがあるので入る。
コーヒーを頼んで、本日はこれでおしまいにする。
東金近くの一宮に山上さんが住んでいたことを想いだした。
都心へは遠いところだから、会合があっても出てくることはなくなったが。
シバセンがよく連絡をとってくれる。
この民家園は気に入っている。
3軒あってそれぞれ趣が異なること、囲炉裏に火が入っている、季節の催しが適度にあることなどだ。
そんなわけで行く機会が多い。
この近くに孝さんの住まいがあるとのことだ。
この3軒の真ん中にある「さかや」の縁側で待ち合わせたことがあった。
「さかや」とあるが、ここで酒が出ることはない。
夕方、成城学園前の街まで歩いたことがあった。
涼しくなってきたら、また行きましょう。
立石
とまりぎ
京成電車で立石へ行く。急行は停まらない。
次の青砥は急行停車駅だ。
駅は地上駅で改札が上にあるので、階段かエレベータで外へ出る。
商店の通りは、仲見世が狭い。全体に昭和の雰囲気が漂う。
広い商店街には、車も入ってくる。
線路を越えたところに呑んべ横丁とある。
入ると、いくつかの店が並んでいる。こんな雰囲気がまだ残っているんだ。
駅前から離れて、中川まで出る。
中川で想いだしたのが、日根野さんが中川の上流近くに住んでいたことだ。
日根野さんは綾瀬駅から通っていたから、立石まで来たことがあったかどうか。
高校生のときに結核で入院し、手術後高校へ戻ったが、年齢はすでに二十歳を越えていたそうだ。
経理関係の仕事が、生涯の仕事になった。
経験豊かな日根野さんからも、教わることが多かった。
最近も黒豚料理を求めて、ここへ入った。
最近は東京駅近くに、地下道が発展してきているので歩きやすくなるかもしれない。
一年前の写真を見ると、東京駅はまだ改装工事の最中だ。
明治時代の姿を再建するとのことで、力が入っている。
その影響か、丸ビルも新丸ビルも内装が綺麗だ。
丸の内のオフィス街が変貌する。
神代植物園
とまりぎ
久しぶりの神代植物園だ。
深大寺門(裏門)から入ると、おかめ笹が木を囲んでいる。
林の中に、島百日紅が並んでいる。
バラ園の向こうに、温室の全容が見える。
原っぱにはパンパスグラスの近くに、売店が見える。暑いから客が見えない。
栃の実ができている。
見慣れた景色だ。
晃さんが深大寺の地に住むようになったのは、そう昔のことではない。
同じ職場だったこともあって、公私共に教えてもらうことが多かった。
時に思い出して、三鷹や千歳烏山の町で会ってもらったものだった。
忙しいことだろうが、よく会ってくれたものだ。
その晃さんが4年前に亡くなってしまった。
もっと会っておくべきだったが、残念だ。
このあとで、約束通り信さんと、武蔵小山駅前で待ち合わせた。
信さんは学生時代にこの近くに下宿していたとのことで、近くまで行ったようだが街が変わってしまってわからなかったようだ。
まだ明るい駅前の「鳥勇」に立ち、生ビールに焼き鳥ではじめる。
生ビールがいい味だ。
最近、発泡酒を出す店もあるから、本物は格別の味がする。
その日は西小山駅前でも一杯やって帰った。
信さんは、次は下北沢へ行きたいと言っていたので、来月あたり行ってみようか。
蘆花公園の烏
とまりぎ
蘆花公園の林の中へ入ると、烏が点在している。
パンの耳を投げるとすぐに食いつくから、公園で餌を探しているようだ。
近くの木の幹を見ると、蝉のヌケガラがある。
蝉が穴から出てくるのを待っているようだ。
用心深く虫を狙っているカマキリも狙われているようだ。
ここからそう遠くない、地名では祖師谷に住んでいた昭さんと会ったのは、宏さんと同時期だった。
宏さんは同期だったのだが、昭さんは10年近い先輩で上司だった。
この昭さんの能力の問題で、ここに勤続するのは時間の無駄だと、三年も経たずに退社した。
その後、「とまりぎ」仲間の何人かが昭さんと一緒に働いたとのことだったが、総じて同じような感想を洩らしたことがあった。
思えば時間がかかったが、このときの決断のおかげで、今日があるのだ。
深川で祭りの現場を見ることは初めてだった。
担ぎ手に女性が増えて、華やかになった。
この深川に住んでいた純さんとは、今も時々会う。
母親が亡くなっていたから学生時代の苦労は、並大抵ではなかった。建築関係に方向を決めていたが、その後建築音響の専門家になっていた。
民間の建設会社に勤務しながら、大学の研究室へも通い工学博士の学位を取得した。
私大の非常勤講師も勤めながら、時期をみて民間会社を退社しある私大の教授になった。
先日は、東京都産業技術センターでの会合で、風力発電関連の講演をお願いした。
終ったあとの懇親会へも参加してくれて、こんな滅多にない機会ができたことに感謝。
中野ブロードウェイ
とまりぎ
久しぶりに中野へ行く。
中野駅のホームから、中野サンモールの入口が見える。
特急電車が通過していく。
サンモールを歩くと、奥にブロードウェイの入口が見える。
地下へ入る。多少店の入れ替わりがあったようだ。
食品が安いから、主婦が多い。
3階の「まんだらけ」を見る。 最近は外国人の姿も目に付く。
独特の世界が広がる。
隣の駅、東中野には先月亡くなった宏さんが住んでいた。仕事で忙しい人だったから、中野のこの街を歩くことはなかったかもしれない。
若いときから頑張りやであったが、医者の忠告をあまり気にしないところがあった。結局それが寿命を縮めてしまったのだ。
想いだすのは職場は違ったが同じ会社に勤めていた頃、 法政大学の夜学へ通っていて一緒に連れて行ってくれたことだ。
以来、付き合いが続いたのだが、彼はいつの間にか税理士になり、しばらくしたら新宿に事務所を構えるようになっていた。
奥さんが亡くなってからは、糖尿病だった自分の食事にも注意が抜けることがあったかもしれない。
振り返れば、特急人生であった。
環七で世田谷区から目黒区へ入ったあたり、碑文谷の地名のところに「すずめのお宿」という公園がある。
目黒区の管理で、囲炉裏に火をいれてくれている。
目黒区にはこの手の施設が少ないため、担当の人たちは一所懸命にやってくれるのだ。
寒い時期には、温かくてありがたい。