旅路 とまりぎ

いくつかのグループでのできごと(主に旅)

大宮

2009年06月30日 | ウォーキング
         大宮
                                 とまりぎ
 梅雨の時期にJR東日本主催の駅からハイキング、大宮駅から鉄道博物館まで歩く企画があり、参加した。

 朝9時から受付開始で、コースの地図をもらって歩き始める。梅雨の晴れ間とでも言う気候で、蒸し暑いものの真夏ほどではなく、歩くにはまだいい気候かもしれない。最初に東へ向って、氷川神社の参道入口から北へ向う。参道の両側にはケヤキの並木があって、その外側には左右両側に車道がある。府中の大国魂神社は真ん中が車道で、ケヤキ並木の外側に歩道があるのと違って、歩きやすい。途中に酒饅頭と書かれた幟が見えたので、寄って仕入れる。
 ほどなく氷川神社へ入る。初めてではないはずなのだが、かなり昔のことだから忘れてしまっている。池を回って神社の敷地から出ると、NACK5サッカー場がすぐ隣にあり、これを回って野球場との間の狭い道を通り抜けると、大宮公園へ入る。ここも初めてではないはずで、池のボートに乗ったことだけは記憶にあるだけだ。
 公園の北の弓道場では、大勢の学生が回りにいて、矢が的に当たると大きな歓声が上がる。その前の道を抜けて東武電車の大宮公園駅近くを越えると、盆栽町への道になる。名前は知っていたが、町へ入るのは初めてで期待していたのだが、盆栽を見せてくれるところがない。地図で探していたら、最後のところに一軒開いているところがあったので、入らせていただく。庭には台の上に多くの盆栽が並んでいる。かなり幹の太いものもあるので、歴史を感じる。奥では数人の方が盆栽つくりの真っ最中だ。
 盆栽の本物を見させていただいて目の保養になったところで、出て高崎線の線路を越え鉄道博物館へ向う。ご町内の方が、大勢で歩いているものだから「何のあつまりですか?」と聞いてきた。地図を見せて若干の説明をしたが“駅からハイキング”を知らなかったようだ。鉄道博物館へ着いたのは、出発からおよそ二時間を経過していたから、途中での見物にだいぶ時間がかかったようだ。
 中へ入ると、現役を退いた機関車や客車の実物があって、その中へも入れる車両もあり、鉄道好きには楽しいところだ。過去に横川の似たような施設へ入ったこともあったが、屋外だったのに比較して、こちらは屋内になっていて昔の神田須田町にあった交通博物館に近い印象を受けた。

 大宮まではニューシャトルで一駅と近いのだが、よく歩いて疲れが出てきているところだからこれに乗る。大宮の町はあまり歩いたことがないので、駅近くの高島屋へ入る。客が少なく、日本橋や二子玉川の店舗と雰囲気が違う。地下の食品売り場はどうかと下りてみたが、やはり違っている。不景気の影響が大きいのだろうか。いずれまた来ることがあるだろう。そのときには活気のある店舗になっていることを期待しつつ大宮を離れた。

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麻布十番

2009年06月23日 | 人生
             商店街(麻布十番)
                               とまりぎ
都営大江戸線の開通によって、しごく便利になったところのひとつが麻布十番だ。過去においても気にいった場所であったから、バスで行った記憶があるし、また、六本木から坂を下って歩いたこともあった。さらに昔は都電が通っていて“一の橋”の記憶がある。
広尾から麻布十番にかけての高台には大使館が多く、普通は用事のある場所ではないから、あまり足を踏み入れない。だが、広尾側から入ると有栖川公園があり、公園内を上がって上の出口から出ると、麻布十番側へ下るところの仙台坂上が近い。寺も多い。
地下鉄の駅近くから六本木へ商店街が続いている。商店街の真中の車道は、六本木方面への一方通行になっている。途中、芝公園から青山墓地の方へトンネルで抜ける太い道ができて、それにぶつかる。越えると六本木に近づくので、麻布十番商店街はこの交差地点までだ。

麻布十番は、弘法大師の開創によるとされる“善福寺”の門前町として発展してきた。現在は浄土真宗に改宗しているそうである。この門前に江戸時代後半、多くの商店が創業され、現在も老舗として商いを続けている店が多い。
さて、その麻布十番における有名店には豆菓子の豆源(まめげん)、白い“御前そば”と市販されていた缶入りの“蕎麦つゆ”で知られている永坂更科。もうひとつがタイヤキの店だ。ここがあの“およげたいやきくん”のモデルとなったそうだが、たしかにテレビの絵で見る店の親父さんの顔は、実物と雰囲気がよく似ている。そのタイヤキだが、いわゆるシッポまで“あん”が入ったというやつだ。人形町甘酒横丁の店と甲乙つけがたい。両店とも客が行列していて、その人気は衰えない。
商店街の中ほどには麻布十番温泉があったが、入ったことがないうちになくなってしまった。しゃれた感じのスーパーマーケットもある。大使館が近いこともあってか、いろいろな人種が日常の買い物をしている。
この近くに巨大な六本木ヒルズが出現してから、出入りのひとたちの一部は麻布十番へ流れる。新しい町と古さを残した町の対比を感じているに相違ない。

昭和34年の春、天現寺橋停留所近く、渋谷川の縁に建つ町工場にいた。近くの有栖川公園は今も同じ雰囲気だ。通りを越えると広尾の商店街。“祥雲寺”が奥にあって門前町の面影がある。
広尾が有名になる以前は、訪れる人は少なく、夕陽が町を歩くまばらな人の影を長く作っていた。それを見ていたのは、ほんの一瞬であったのだが、一枚の記憶の絵として残った。町工場での仕事はおよそ半年、怪我をしてながくは続かなかった。麻布十番から広尾へ歩いて、その町工場の場所へ行ってみるが、ない。そこにはもう無くなっていた。古ぼけたかすかな記憶の断片だけを残して。
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霜降銀座

2009年06月16日 | 商店街
商店街(霜降銀座)
                             とまりぎ
駒込駅は、六義園、旧安田庭園が近くにあるので、またそれぐらいの記憶しかないところだったが、営団地下鉄南北線も通り便利になった。寒い季節には旧安田庭園へ行ってもバラは咲いていないだろうと思いながら、六義園のあと駅を越えて山の手線の外へ緩やかな坂の本郷通りを下ると霜降橋というところがある。その左側に霜降銀座と書かれているので入る。

霜降の名前は、「しもふり」とひらがなで書かれたところもあって、牛肉のしもふりと勘違いしそうだが、霜降橋の名からつけたようだ。巣鴨地蔵の近く、現在の豊島市場あたりから豊島区駒込と北区西ヶ原の間を流れ、台東区谷中と文京区千駄木の間から上野不忍池へ注いだ、今は暗渠になって現存しない谷田川にかかる橋であったそうだ。
その橋が木製から石の橋に架け替えられたときに、霜がついたので霜降橋と呼ぶようになったそうだ。谷田川の名は、今も谷田川通りとして残っている。
そのまま商店街を先へ歩くと、あまり太くない車の通る道を横切るたびに染井銀座、西ヶ原銀座と商店街の名前が変わって、ひと続きになった全体はたいへん長く、だんだん店が少なくなったところで商店街がなくなり、車の通りへ出ると都電荒川線滝野川一丁目停留所がすぐ近くに見える。
商店街には昔からの商店のほかに、スーパーマーケットもいくつかあって、共存しているようだ。染井銀座の途中には中華饅頭が格段に安い店があって、女学生が歩きながら食べているのが目につく。
染井の地名は染井霊園の名で知られているが、また桜の「染井吉野」にも縁があり、江戸時代に染井の地からオオシマザクラとエドヒガンの雑種が「吉野桜」として広まったのを、明治時代に「染井吉野」と呼ぶようになったらしい。だが、現在において染井の地名はない。染井霊園のあるあたりは、豊島区駒込になっている。
商店街を少し戻って、途中から昔の谷田川が流れていたと思しき道をたどり、都営霊園の中では最も小さい染井霊園へ入ってみる。染井吉野らしき桜の木が多くあり、高村光雲・光太郎・智恵子、水原秋桜子、二葉亭四迷、岡倉天心、若槻礼次郎、安岡正篤など明治以後の墓がいくつかある。
墓地を抜けて白山通り方面へ登ると、徳栄山本妙寺の門前には遠山左衛門尉景元と書かれているので入ってみる。ここには千葉周作成正の墓もある。染井霊園よりさらに歴史がありそうだ。

寺の門から真正面に続く道を行くと、豊島市場の脇を通って白山通りへと出る。通りを越えれば、巣鴨とげぬき地蔵の高岩寺はすぐ近くだ。
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洗足池

2009年06月09日 | 自転車
洗足池
とまりぎ
 東急池上線の洗足池という駅から近く、中原街道に接して洗足池公園がある。過去に行ったことはあったのだが、はっきりした記憶があまりないので、地図で目にするたびに、近くに行ったときには寄ってみようと思っていた。

 10月の休日、自転車での体力維持のために目黒通りを越え、五反田の衣料品セール会場へ寄った。その帰り道で中原街道を西へ、途中武蔵小山商店街で昼食をと見ると、駅近くの焼き鳥屋で焼きたての鳥、これを数本。素材が新鮮なのか、レバーもうまい。これだけでは足りないので、商店街のなかの喫茶店でパンとコーヒー。
 さて、洗足池へ向ってみようかと、また街道沿いに走る。環七を越え長原を左に見ながら坂を下ると右に洗足池公園。池に沿って右回りに入る。足こぎボートがいくつか動いていて、奥の方には蘆と思われる背の高い水辺の草が群れになって立っている。
 さらに回ってみると、寺のような古い建物と新しい図書館が隣り合わせに池側にあり、反対側には勝海舟の屋敷跡の碑が見える。ここで図書館側から池の縁へ出る遊歩道のような細い道を歩いてみる。池へは短い階段があり、下りると池のすぐそばへ立つことができる。水面近くから見ると思ったより広い池だ。向い側には遠くに黄葉が始まっているなかに、太鼓橋が見える。
 先ほど通った長原の地名が気がかりになって、その記憶をたどってみると、終戦直後の五反田から池上線、長原駅から歩く途中の家の低い大谷石の塀、数年前に亡くなった叔母、会った記憶にないほど昔に亡くなったその夫の画家など、あれは長原だったのだということを思い出した。
 戦前、五反田あたりには太宰治など作家の多くが住んでいた所のようだから、今は都営線には馬込といった駅名があり、画家であったとすれば、このあたりに住むことをあたりまえのように思っていたのかもしれない。病弱であったようだから、そう遠くへ出かけることもしなかっただろうし、洗足池は格好の写生地であったかもしれない。
 亡くなってしまうと、叔母はひとり娘を夫の実家へ預け保険関係で働き、十数年経つとある程度自立できるようになってきた。そこで念願であった娘を引き取り、親子二人の生活がはじまった。娘は実家が裕福だったのか、その経緯の詳しいことはよくわからないが、お嬢さんに育てられていた。

 戻って、駅前まで行ってみる。駅は地下になってしまい、記憶の断片と繋がるものがまったく無くなって、そこから先へたどることができなくなった。駅の入り口を背にして見ると、新しい商店街は新しい建物ばかりになっている。どこの私鉄沿線でも見るような風景で特色がないから、初めてではないはずなのだが、あまりにも変わっていてまるで地方都市の知らない町の中に入り込んだかのような錯覚を覚えた。
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遠藤博先生

2009年06月02日 | 人生
遠藤博先生
とまりぎ
 4月の末に届いた、亡くなられたとの知らせにびっくりし、しのぶ会への案内が続いていたので、出席の返事を出した。

 最初にお会いしたのは入学の頃、奨学金申込者を遠藤先生おひとりで面接したと記憶している。運良く奨学金を受けられるようになったので、よく覚えている。授業でもそうであったが、静かな印象がある。

 卒業後同期会を計画し、参加者は多くても10名ぐらいであったが、先生をお呼びしようというので連絡をとった。快く応じていただき、遠藤先生が電通大の名誉教授であることや、健康に気を使っていることなどをお話いただいた。覚えているのは、ビタミンCを補給するために柿の葉を乾燥させて、お茶と同じように飲んでいることや、カルシウム補給のために煮干のすりつぶしたものを“ふりかけ”にしていることなどであった。

 しばらくして先生から個展の案内が届いて、絵を描くことを同期会のときに話されたかどうか失念していたが、調布駅東口近くの喫茶店へ行った。展示された絵は水彩の風景画が多く、素人目にも行ったことのある場所ならば、それがどこだか容易に理解できた。
 その日は見させていただいただけで帰ったのだが、翌年同じ場所での個展の案内が来たときに購入して、新築した多摩の工場の記念に飾ることにした。数回そのようなことがあって、おかげで工場には、それとわかる先生の絵がいくつか飾られている。

 5月連休の最後の日、多摩センター駅から南へ10分ほどの会場へ向った。昼からのあいにくの雨であったが、すでに多くの方々が並べてある絵を鑑賞していた。水彩画だけでなく、大きな油絵のキャンバスも並んでいる。裸婦のスケッチと油彩もある。切り絵や現代絵画のようなものもある。

 調布の喫茶店では気が付かなかったのか、それとも展示していなかったのか、雰囲気の異なる絵に目が入った。お年の女性たちが名前を書いて、そのシールを作品に貼っているのに気が付いて、受付の方に聞いたところ、作品のすべてが持ち帰りできますからと数枚のシールをくれたので、残っている作品のうち、切り絵とスケッチブックに貼った。まだ会が始まっていないうちから、お年の女性たちはなかなかすばやい。

 予定の午後1時を過ぎ、先生の息子さんおふたりから、先生が若い頃から画家への希望をもっていたが、医者であった父親の意見があり、第二志望の物理へ進んだこと。最近は元気な一人暮らしで、好きな絵に向いていたが、転んで足の指を骨折したのが今年の初めころ。入院しリハビリのために階段の上り下りの負荷で腰の骨折が原因で急激に弱り、4月22日、94歳の最期になったということであった。

 ビタミンCとカルシウムを摂取し、スケッチのために山や海へ出かけてよく歩いたことが長寿につながったものと思う。雅号遠藤伯。
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