この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分の1地形図を複製したものである。(承認番号 令元情複 第546号)
奈古(なご)は西に日本海と面し、郷川の河口付近に町が形成されている。江戸期は徳山藩
領の飛地で萩から益田に至る石州街道(仏坂道)が通り、今も街道に沿って町並みが残され
ている。(歩行約5㎞)
JR美祢線からJR東萩駅、ここで奈古駅行きバスに乗車して道の駅阿武町で下車する。
郷川に架かる鹿島大橋より河口付近。
右手の男鹿島に鹿嶋神社があり、海上安泰の守護神として漁業者の信仰が厚いとされる。
奈古湾に浮かぶ男鹿(おが)島・女鹿(めが)島の見える場所に鹿嶋(仮嶋)神社遥拝所がある。
奈古港の周辺は北長門海岸の典型的な沈水地形をなしている。港は北前船の寄港地、萩
への海上輸送として早くから繁栄した。
奈古漁港では「わかめ干し」の最盛期。
石州街道は道の駅阿武町で寸断されているが、藩政期には川がなかったようで、現在は
歩道橋が架けられている。国道191号線ができるまで橋幅は広くバスが運行されていた
という。(当時の橋桁が残る)
現在の郷川を渡り釜屋に入ると正面に中村家がある。庄屋の補佐役である畔頭(くろがしら)
を務めた家で、永代家老の益田親施(ちかのぶ)が萩と須佐を往復する際に、休息する陣屋に
当てられたと伝える。家伝によると、建物は初代が元禄年間(1688-1704)に建てたという。
約150mの釜屋の両側には明治、大正期の建物が並ぶ。
K家は屋号を「折廻し」といい、主に塩を扱うと共に船持ちで曳網の株を有していた。
主屋は平入り切妻造である。
道を挟んで左が釜屋北、右手の郷川側が釜屋南である。
釜屋の先で左折する。
現在は釜屋の南側に郷川が流れるが、もとはこの小さな水路が旧河川で流路変更がなさ
れた。長さ12間(約12.8m)の浦方橋があったとされ、浦と釜屋の境界でもあった。
1906(明治39)年創業の河野酒造は、「春洋正宗」という銘柄で酒造されていた。
河野酒造の酒蔵が道に面する。
水津家の先が奈古浦の中央付近で、鉤の手だったと思われる。
奈古薬局は阿武町暮らし支援センター「shi Bano」になっているが、本日はお休みだっ
た。
折れ曲がる場所にある家は隅切りされている。
建物が密集していたので度々大火が発生し、1690(元禄3)年120戸、1703(同
16)年130戸、1756(宝暦6)年には約200戸を焼失している。(八祥園・八道家)
三好家は、三代目が「阿武の鶴」の銘柄で酒造業を始める。主屋は平入り切妻造の中2
階建てで、2階は漆喰塗の壁に虫籠窓を等間隔に並べる。
たなか理容付近の町並み。
石州街道の三ツ辻を直進すると了雲寺。
1652(承応元)年創建の了雲寺(浄土真宗)は、1900(明治33)年築とされる本堂であ
る。
向拝の彫刻は見応えがある。
了雲寺と法積寺の間に本陣(御茶屋・勘場)があったとされるが、遺構等は残っていない。
街道まで戻って奈古市に入り見返ると、正面には明治期に建てられた八代本店がある。
現在はお食事処「かどのやしろ」で平日営業のみだが、安価で美味しい食事を提供してく
れる。
明治期に建てられた平入で切妻屋根の末益家。
奈古市の法積寺入口に立つ土田家の門名は「古庄屋」という。詳細は不明だが門名や立
地などから奈古市の重要な家であったと思われる。主屋・門・蔵は築100年以上経過す
るとされる。
末益家と土田家の間は法積寺の参道だが、ここに恵比寿社があったとされるが痕跡はな
い。
平安期の1175(安元元)年に創建された功徳院は、1559(永禄2)年に焼失したが、
翌年には現在地へ移転再建される。その際に寺号を法積寺(浄土宗)に改めたと伝える。
現本堂は1824(文政7)年築とされ、長門市青海島の西圓寺と同朋寺であり、入口が正
面でなく左右別々にある点も西圓寺を模したものである。左側が女子参拝口、右が男子参
拝口の様式となっている。(西圓寺と同様に蓮寺)
奈古市は農家が増加したようで、建物としては、奈古浦より規模が小さく年代的にも新
しいものが多い。(向い合う岡本家(右)と中野家)
中野家は門名を「紺屋」といい、農業のかたわら紺屋を営む。1887(明治20)年築の
平家建て建物は、漆喰塗り込みで格子を設けている。
菅原神社鳥居の傍にある猿田彦は町内最大で、1842(天保13)年に建立され、台座に
は庄屋などの寄進者名が刻まれている。
菅原神社は、1734(享保19)年徳山藩5代藩主・毛利広豊によって再建される。
化粧地蔵とされた理由ははっきりしないが、化粧地蔵がある土地には1つの共通点があ
るという。多くの幼い子どもたちが災害や戦いで犠牲になり、「子どもの守り仏である地
蔵に化粧して、子どもたちの幸せを必死に祈る人々の、強い思いのあらわれである」とも
いわれている。
現寺号以前は光応寺とよばれていたが、1610(慶長15)年尼子義久死後に義久の法号
に因み大覚寺と改称する。
曹洞宗の本堂にしては質素である。僧・永満が平安期の1042(長久3)年に開基したと
いわれている。
灌漑用水地にある宝篋院陀羅尼塔(ほうきょういんだらにとう)は、仏舎利および宝篋陀羅尼
経を納める塔で、1824(文政7)年に建立された。
境内地には尼子義久の墓がある。1566(永禄9)年毛利氏の軍門に降り、富田城を開城
して義久、倫久、秀久3兄弟は安芸長田の円明寺に幽閉される。
のちに、内藤元泰の働きかけもあって、島根県金城町久佐に1,129石を所領する。
義久には子がなく倫久の子を後継とし、久佐を出て嘉年の五穀禅寺で剃髪して、叔父の
住む奈古の光応寺の隣地に庵居する。
同寺には明治期の徳山藩士(奈古出身)で、1869(明治2)年英国に約半年間滞在した池
田梁蔵の墓がある。帰国後に萩・大井の洋式架橋を設計するも、1870(明治3)年11
英国で学んだ工業技術の知見を生かすことなく病没する。(享年38歳)
JR奈古駅14時22分の長門市駅行きに乗車する。