この地図は、国土地理院の2万5千1地形図を複製加工したものである。
厚狭は町の東部を厚狭川が南流し、標高の低い山に囲まれた厚狭盆地に市街地、その周
囲に水田地帯が広がる。
東西を旧山陽道が通り、南流する厚狭川と交差する左岸に厚狭市が形成される。船木、
吉田宿の半宿であったが、海辺への利便性がよく商業が発達する。(歩行約4.2㎞)
JR厚狭駅は、1900(明治33)年に山陽鉄道が三田尻駅(現防府駅)から延伸し、その
終着駅として開業する。1959(昭和34)年に鉄筋コンクリート造で改築された駅舎は健
在である。
厚狭の寝太郎伝説は、1842(天保13)年に編さんされた「防長風土注進案」に、物語
の原型とされる記述がある。この物語は灌漑工事という事実と、それを行った寝太郎とい
う人物が民話として結びついたと考えられている。
民話によると、寝太郎の父が庄屋であることや3年3ヶ月寝て暮らしたこと。佐渡金山
の草鞋から資金を調達し、厚狭川を堰き止め、大井出(土手)や水路を作り、千町ヶ原の沼
地を水田にした話などが加えられて、現在の寝太郎物語が形成されていったとされる。一
説には大内氏の家臣だった縄田四郎兵衛(平賀)清恒がモデルともいわれている。
1900(明治33)年に山陽鉄道(現山陽本線)の厚狭駅が設けられて以来、川の西岸から
駅に向けて、新しい街が賑わいを見せたが、今は閑散とした千町(ちまち)商店街である。
山口県の南北を走る美祢線の線路は赤錆びているが、2023(令和5)年6月30日から
の大雨で全面運休となった。赤字路線には補修費用が重くのしかかり、復旧の目途がたっ
ていないという。(千町踏切)
美祢線踏切を越えた四差路の角に廃業された福永薬局。看板は武田薬品前身の武田長兵
衛商店時代のもので、全国的にも珍しいとか。
1903(明治36)年創業の民正堂は、厚狭銘菓のダイナマイト羊羹を製造・販売されて
いた。ダイナマイトの形をした羊羹とのことだが、厚狭にある日本化薬の工場でダイナマ
イトを製造していたということに由縁するそうだ。
店主が亡くなられたことで廃業されたそうだが、この羊羹が、兵庫県宍栗市(しそうし)の
D-JK㈱(段銃砲火薬店)によって復活されたとか。
杉井金物店は店舗兼住宅だったという造りである。
鴨橋西詰から見返る千町通り。
鴨橋西詰の角に吉武魚店があったが、災害対策の河川改修で空地となった。「厚狭 杜
のまち」が管理を行うことで公園に生まれ変わり、愛称は「さくらほっとパーク」と小学
生がつけてくれたとのこと。
公園の一画に旧山陽道の道しるべ。「右 あつ 左 はぶ・下の関」とあり、旧山陽道
は厚狭川右岸の南下していた。
街灯があってレトロな鴨橋だったが、新しい橋に架け替えられ、明治4年(1871)8月と
刻まれた橋の親柱が残されている。橋を渡れば旧山陽道筋の厚狭市(本町商店街)である。
菅原神社(注進案には厚狭天満宮)の社伝によると、1625(寛永2)年に当地の枝村家が
同家の鎮守神として、萩の金谷天満宮の分霊を勧請したことに始まるという。
その後、厚狭村の金谷に遷座して金谷八幡宮と称したが、1804(文化元)年に地区の氏
神とし、1830(文政13)年に天満宮をこの堤防に遷祀し、堤防の守護神とした。
鴨橋について風土注進案には、幅6尺(181.8㎝)、長さ28間(50.9m)とあり。
2月に洪水の恐れがあるので取り外し、8月に定置して橋に替えたという。この期間は渡
し舟が置かれた。
1871(明治4)年に常設の橋となり、1927(昭和2)年に架け替えが行われたが、20
10(平成22)年7月の集中豪雨による河川の氾濫で被害等が発生する。
このため河道の堀削及び拡幅、排水ポンプの増設など工事が行われ、これに伴い鴨橋も
架け替えが行われ、2016(平成28)年3月に現在の橋が完成する。
皇后岩伝説によると、百済の琳聖太子の母が太子の跡を慕われて大和国へ向けて出航さ
れた。飛鳥期の614(推古天皇22)年4月白江ノ浦(現梶浦)で御座船の舵が折れたので、川
辺(現厚狭川)伝いに上がられると、水際にあった岩がお休みになったという。
元々川底にあったが、河川工事のためこの地へ移設したと説明書きがある。
厚狭市と旧山陽道の古地図。
厚狭市について風土注進案は、「半宿ニテ本宿同様通路之人多」とある。駅人馬の手当
として、人夫25人、馬15疋が置かれた。市の町名として新町(中央より上手)、中町(中
央)、下町(市尻)があり、中町より下町の者は商い事を専らとし、農業にも相勤めたと記す。
(市尻の村谷茶店)
鴨橋東詰の右に旧枝村家があった。代々酒造業を営む旧家で、庄屋を務めたという。広
大な敷地であったが、今は分売りされて往時の姿を見ることはできない。
清酒「山猿」の銘柄のほか、焼酎、ワインを手がけられている永山酒造。3軒の造り酒
屋があったようだが、現在は永山酒造のみである。
本町は江戸期から明治にかけて、千町は明治から昭和初期に建てられた家屋が多いとさ
れる。
現在の川東会館の建物は、1952(昭和27)年2月厚狭町商工会や商店主らが誘致し、
広島相互銀行宇部支店厚狭業務取次所として開店する。その後、厚狭支店に昇格したが、
同行が支店数制限を受けている中、他市に支店を出すことになり、1969(昭和44)年
11月に廃止される。建物は土地とともに町へ寄付された。
フクマン醤油の商標で、みそ・しょうゆを製造販売されていた福田屋本店。その手前は
旅館「山城屋」だったとか。
村田家の軒丸瓦と妻壁には丸に十字の家紋。
左手の重厚な家は元造り酒屋で、雛めぐり期間中は公開されるとか。
祐念寺(真宗)について寺社由来は、開基を清覚とし、室町期の永禄年中(1558-1570)長
門国美祢郡に住居のところ、厚狭市の檀那の招きを受ける。1566(永禄9)年厚狭市の南
に一宇を構えたが、1678(延宝6)年に町並み整備に伴い、鴨大明神(鴨神社)の社地跡に
移建したとされる。風土注進案は、1580(天正8)年建立と異なった寺伝としている。
厚狭高校南校舎への路地にある貴船神社は、水の神を祭神とする。
厚狭高校は、厚狭毛利家第10代当主・毛利元美の妻であった毛利勑子(ときこ)によって、
1873(明治6)年に創立された「船木女児小学」を前身とする。女学校としては東京・京
都に次いで日本では3番目に古い学校で、毛利校長は日本初の女性校長でもあった。
その後、船木女学校、徳基学舎などを経て、1908(明治41)年厚狭高校南校舎のある
地に新築移転する。大正期に厚狭高等女学校、戦後に厚狭女子高校(南校舎)、厚狭高校(北
校舎)となるが、1949(昭和24)年に両校の統合により、厚狭高校となる。
2025(令和7)年度から厚狭高校と田部高校が統合されて厚狭明進高校となる。(現在
は使用されていない南校舎)
国道316号線が横断するが、古地図によると場所は特定できないが、賀茂神社参道か
ら少し西下左側に「高札場」「春定札」が記されている。風土注進案には「御高札場壱ヶ
所 厚狭市」とあるが、この辺りから厚狭川東岸までが本町(旧厚狭市)だったと思われる。
形状の違う鳥居が2つ並んでいるが、手前が護国神社の神明鳥居。奥側は鴨神社の一の
鳥居で、その間を旧山陽道が通っている。
賀茂神社への参道分岐点から約60m左手に雑賀神社がある。境内には文化六己巳(つち
のとみ・1809)八月十五日と刻まれた庚申塚がある。
鴨神社参道まで引き返すと、その先を旧国道2号線が横断する。(傍に手押し信号機あ
り)
鴨神社の縁起によると、大内氏の祖と伝える琳聖太子の持仏十一面観音を厚狭の久津(現
在の沓)に祀り、さらに平安期の大同年中(806-810)に京都鴨社を祀ったのが始まりとする。
鎌倉期の1196(建久7)年村内の河東(現在の祐念寺の地)に遷座したが、室町期の応神
年間(1467-1469)火災に遭い、1618(元和4)年藩主・毛利氏によって再建され、厚狭
市の町並み整理時に現在地に移ったという。
毘沙門亀甲模様(亀甲の形に3つを組み合わせて繋いだ柄)に、「下水」と「山陽町」の
文字があるマンホール蓋。
スーパー前の国道加藤交差点を利用して、伊佐道を少し歩くため里道を利用する。
里道を突き当たる左右の道が、厚狭市から美祢市伊佐に通じる伊佐道。多くの古民家は
残されていないが、歩いてみたくなるような道である。
大福寺(浄土宗)は、もと厚狭市にあった鴨大明神(鴨神社)の社坊で、真言宗の神護院と
称していた。真言宗から浄土宗へ改宗した時期は、鴨神社の社坊を離れた時期と考えられ
るが、1631(寛永8)年現寺号に改めたとする。
明治の神仏分離により、鴨神社に安置されていた十一面観音菩薩が当寺で祀られること
になった。
墓地から厚狭川左岸に出て、周辺部を眺めてJR厚狭駅に戻る。