何年か前まで長年の間起立性低血圧を患っていた。
立ち上がっただけで意識が遠のく。
同乗していた車から降りる際に意識が遠のき、顎から倒れ、出血で夜間救急病院に運ばれるとか。
部屋の中で立ち上がり、倒れかけてノートパソコンを踏みつけて再起不能にするとか。
毎日が憂鬱でね。
立ち上がるだけで何らかの被害が発生するって、何もしたくなくなるんですよ。
それは「寝ていろ」という身体のサインだったのかもしれないけれど。
寝ているだけというのもそれはそれで生産性がなくキツイ。
生産性がない自分自身に無価値感を感じ続けなければならない。
その状態を経験して今がある。
動き回れることに感謝を禁じ得ない。
とはいえ、疲労は疲労として存在する。
疲れ過ぎれば治癒能力も判断も鈍る。
そのあたりのメンテナンスも自己責任なので。
休めるときには休みますよ。
そんなことを思う年末。
日本人て規格化された大量生産品なんだろうなとしみじみ思う。
均等な良い品質のものを大量につくる。
これが物だけじゃなく人にも適用される。
義務教育から高校、大学、社会人まで。
標準以下もダメだし、標準以上もダメ。
均質化した品質を大量につくり出す。
標準以上ならいいじゃない?
オーバースペックなものができると、なんで他はそれができないのかとか、他ももっと質を上げろとか大変になるんですよ。
だから高品質も許せないんです。
所詮他人なのに。
他人が自分だから。
大量生産だとね。
大量生産よりもこの世の中で一つだけとか、カスタムメイド、オーダーメイドとかの方に価値観が移りつつある。
物も人も。
みんな一緒から多様化した個性へと変わる。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」が画像映像と共に簡単に証拠として公表できる情報端末の発達もあり。
黙っていれば隠し通せるという文化も終わりつつある。
「経営の透明性を高める」という意識以上に、身内の恥が世の中に筒抜けになる技術が一般的になっている。
世の流れを見誤って、臭いものに蓋をしている姿が世界中に配信なんて、もう一般化。
飛び抜けた高品質が存在することを、教員も保護者も同級生も、それこそ一般社会人が認識できないと、世界には置いていかれる。
ガラパゴス的進化でいい?
それでも隣の芝生は青く見えるんだ。