ささかのブログ

雑多な思考整理のためにブログを活用中。
自分が生きやすくなればいいと思うけれど、教祖になるつもりはない。

やめていい。

2017-08-29 23:44:03 | 日記
もうね、他の誰かがなんと言おうと書きますが。

夏休みは休むためにある。
勉強をするためじゃない。

好きなことをしていればいいと思いますよ。
好きなことをした結果が、夏休みの成果でもいいと思うんだ。

海や川やプールに行ったら真っ黒。
死ぬほどスイカを食べてみた。
雨が降って予定が潰れた。
ゲームを解こうとしたけど飽きた。
ソーシャルゲームで使い込んで怒られた。

その原因を本気で調べたら、それはそれで研究成果になる。

例えば日焼け。

太陽光に当たると肌はどうして黒くなるのか?
なぜ黒くなる必要が?
人種の違いはどうして?
肌の色が違うとおかしいのか?

これを本気で考えたら、本当にすごいことになる。
地球と世界の歴史と、人類の発展。更には細胞の構成や太陽光から発せられるあらゆる波長の光などなど、数限りない研究テーマがたくさんある。

勉強したかったから、勉強した。

でも構わない。

学校に行くのが死ぬほど嫌だと言うなら、行かなくてもいい。

死ぬよりマシだ。

「義務教育」の意味を間違えている大人のほうが多いと思うが、
「子供が学校に行かなくてはいけない」
ではない。

「子供は働いて金銭を得てはいけない。だから大人が子供に等しく教育の機会を与えて、働くようになっても困らないように、基本的教養を身につけるようにする義務」
なんだよ。

私は言ってはなんだが、基本的教養なんぞ身につけていない。
掛け算九九の暗唱さえ怪しい。

だが、大学院まで行ってしまった。

無駄に命数法(一十百千万億兆京…無量大数)とか、16進数、256進数とかの計算はしていたが。義務教育だけど自主的に。


中学まで父親は、
「勉強するのが義務だ」
と言っていたくせに、高校になったら、
「高校は義務教育じゃないから働け!」
などと言うもんだから、めちゃくちゃ勉強してやったわ(笑)


つまり、学校に行きにくいのは、子供の責任ではなく大人の責任だ。

それで大学まで行って、ほとんどが遊びに興じるもんだから、工業高校出身でも余裕で首席になっちゃえた。


いま頭を悩ませている課題は、今やるべきものじゃない。いつでもできる。

まずは生きること優先。

後悔しない生き方なんて、どんなに年を取ったって、誰一人としてできやしないんだから。
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私はワタシと旅に出る。

2017-08-28 23:34:14 | 日記
「自分探しの旅」
というのは無いと思っていて、
「自分発掘の旅」
なんだろうなと思っていて、まぁ、実際そうだったわけだ。

そこで浮かんだのが「おもひでぽろぽろ」で、タイトルはそのキャッチコピー。

タエ子は会社を休み田舎へ旅をする。
なぜか小学校時代の自分を連れて。
自分の過去を省みながら、田舎で生活しているうちに、自分の原点を見つけ、最終的には結婚を決意する。

結婚を決意まではしなかったが、会社は辞めたし、今後の仕事はどうしようか、自分自身の目指すべきベクトルというのは見えたと思う。

ある意味、自分発見でもあったし、自分発掘でもあった。

仕事とは?
自分の能力を社会に還元することで、社会の活性化を促す。
収入は、社会への貢献度合いで、その何%かが入ってくる(はず)。

「自分が儲けよう」と思って仕事をするのではなく、「社会を育てよう」と思って仕事をする。

仕事の取捨選択がわかりやすくなった。

今までこのスタンスでやってきて、なんとかなっているんだから、変えなくてもいいだろうと。

今日、コンビニのレジの子がやたら背が高かったので、
「おっきいねぇ?」
「172cmあります!」
「んじゃあアレか、バレーボール?」
「いえ、全く全然」
「そか〜。そんなもんだな」

自分も最近なぜか(?)体育会系と思われて、
「ガチオタクです!」
とは言えないし、言い切れないし、言ってどうするんだというのもあり、アレだ。
「いえ、全く全然」
としか応えようがないものな。

「仕事でも冒険しまくるんですか?」
「いや、仕事は地道に堅実にだよ。旅は多少無理するけど」

そんなもんです。ええ。
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君のナハ(せんだみつお)

2017-08-24 23:10:25 | 日記
見たいと思っているんですよ。「君の名は。」
時間あるくせに見れないというね。
明日は見よう。真面目に。

意外に自分主体で生きている人って少ない。

ある日音響学の先生がツイッターでサーキュレーションナンタラを力説していたので、
「なんですかそれは?」
と聞いたら、
「論文にあるからそれを読みなさい」
という。

真面目に探して論文をネットで取り寄せましたよ。
確かにその人の名前も共著に載ってましたね。
よくよく読むと、三角関数の時間関係式と思われた。
で、聞き返したんですよ。
「三角関数の時間関係式ですよね?」
「詳しい説明は、論文を主に書いた人に聞いてくれ」
それで振られた人はこれまたツイッター上で、
「えー?なんで俺が?そうだよ。三角関数の合成だ」

小保方晴子さんがSTAP細胞で吊し上げを食らう前だ。

論文の精度なんて、昔も今もそう変わらない。
名前をいっぱいくっつけて、あたかも自分が考えて査読しているようにしているが、なんにも分かってないなんてことはザラです。

日本人っていうのは、自分が表立つのは嫌いなんだろうな。
名前が公になっている教授と呼ばれる人だって、学生の成果が自分の業績なのだもの。

「私はこう思う」
と切り出すより、
「○○さんが言っていたのを偶然聞いちゃったんですが」
と切り出して、持論を言う方が責任は必要ないわけだ。

責任がないから、世の中の風潮に流れやすい。
みんなとおんなじものを好み、消費し、みんなと同じように罵り、ヘイトする。

「でもそれは誰の人生?」と聞かれたときに、主役は不在なわけだ。

「○○ちゃんのママ」
「○○ちゃんパパ」

子供は重要だけどさ。子供のためだけに自分は生きておらんがな。

自分の人生は自分で主体的に決めて責任を持とうぜ?

それができなければ、結局子離れもできんがな。

子供が主人公の人生を長年送ったら、そりゃ主人公は自分じゃなくなる。

で、そういう親を見て育った子供は?

主体的な人生など送るわけもなし。


で、タイトルに戻る。真面目に。

「君の名は。」

見てないけど。
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ADHD

2017-08-23 21:32:10 | 日記
「空気を読まない」

ことを実践し始めてから、

「ADHDなんじゃないか?」

と他人から思われている可能性があるので、ADHDの定義を子細に調べた。

感受性が強いのは幼少期から今でも見られる傾向だが、これは何かと必要なので取っておく。

怒るときには怒るようにしているため、怒ったことに対して後悔はしていない。

つい先日も災害ボランティアセンターに作業の判断を仰ぐために連絡したところ、私達のチームの派遣先が中止になったという。
では正しい派遣先は何処か?と訊いたところ、わからないという。

これは怒る事案だと判断し怒った。
目の前には土手をえぐる濁流の川が流れている。
午後の作業を開始したら大雨が降ってきて作業中止となった。

災害ボランティアのメンバーが負傷、脱水、二次災害にあったとき、最優先に連絡するのはボランティアセンターだ。
それが何の情報も把握していないで、どのような判断指示を出せるのか?

無論、作業中ではなく、センターに戻ってから。

怒るときは計算する。

会社で怒るときも計算して怒っていた。
今このタイミングで怒らないと、なあなあで終わることを知っているからだ。
とぼけるだけなのでね。


該当しそうな人は脳裏に何人か浮かんだが、専門家による判断をしっかりと受けないと、判断はできない。

自分に関してはシロだとはわかった。
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組織の意思

2017-08-23 09:49:27 | Office
組織の意思というものは存在しない。


組織社会の慣例や習慣というものは、組織の中で作られていくが、それを判断し実行するのは、あくまで個人。

その権限と権力を持つ個人が、どれだけモラリストであるかによって、組織のモラル(倫理)は守られるが、そのモラルが欠落すると簡単にモラルハラスメントは起こる。

組織が固着化すると、役職者を選ぶ基準は、どれだけ慣例と慣習を疑問なく実行できるかで決まり、社会的もしくは法律で定義される「基本的人権の尊重」は重視されなくなる。

モラルハラスメント(倫理上の嫌がらせ)などではなく、モラルハザード(倫理の侵害)が常態化する。

別にこれは、特定企業組織内で起こるわけではなく、学校組織やママ友、友人関係にも起こる。

「当たり前の常識」と前置詞を置かれる価値が、ただの一個人の偏見ということは多分に存在する。

したがって多くの人が傾倒する組織や社会が、正常であるかどうかという議論はあまり意味がなく、個人的な主観でその組織が好きか嫌いかで判断するのが、一番確実だと言える。

大戦中の日本は明らかに異常だったが、それに異を唱えることは国内において、どんなに正当であろうと粛清対象となった。

そのような事態は、未だに現実として存在する。


判断基準?
それは主体的に疑問を追求する探究心があれば図書館にでも、法律の専門家にでも答えは転がっている。
現状に対して疑問を抱かない限り、どのような助言も意味をなさないから、誰も真実など教えない。

教えても、強く否定するか、拒絶するだけなので。
そして認識をさらに捻じ曲げていってしまう。

自ら探求するしかない。
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