小さな頃から「何かで競う」っていうのが嫌いなんです。
単一の価値観で優劣つけて何が面白いんだ?というね。
運動競技一切面白くなかったし、ナントカ競技や競争の類は全く主体性を持つことはないと思う。
ドッジボールはひたすら逃げ回るというね、苦痛の競技だったわけです。
他の人にボールをぶつけるのも嫌だし、ぶつけられるのも嫌。
↓
被弾しないように逃げまくる。
最初から外野に行きたいけど、なかなか。
運動がまるで嫌いだけど、非常階段の2階から飛び降りて、足底痛めるというね。
全く主体的に。
結局、数字やらで簡単に優劣が付くものに一切興味がない不良だったわけです。
その代わり美術工作は良い悪いの評価は人によってまるで違う。
ザックリ作ったものが評価されて、ものすごく作り込んだものが評価されないなんてことはよくある。
小学生の頃からゲームプログラミングをしていたけど、それだって誰も評価できないから誰も点数をつけられない。
自己満足の極みなんですが。
だからこそ周りの批判なく、作り込むことができたわけです。
あとは限られた資本でどうやって作り込むか?
その創意工夫のほうが湯水のようにある予算より価値が高いことに気づいたのです。
今の技術で言えば、Nvidiaのグラフィックボードを買わずに、同等のフルポリゴングラフィックスを実現するみたいな。
「すげぇ」と思うこと。
でもコツコツやること。
そういうのが面白い。
「自分との闘い」とも言うのかもしれないけど、すすんでやっている辺りどうなんでしょうね。
単一の価値観で優劣つけて何が面白いんだ?というね。
運動競技一切面白くなかったし、ナントカ競技や競争の類は全く主体性を持つことはないと思う。
ドッジボールはひたすら逃げ回るというね、苦痛の競技だったわけです。
他の人にボールをぶつけるのも嫌だし、ぶつけられるのも嫌。
↓
被弾しないように逃げまくる。
最初から外野に行きたいけど、なかなか。
運動がまるで嫌いだけど、非常階段の2階から飛び降りて、足底痛めるというね。
全く主体的に。
結局、数字やらで簡単に優劣が付くものに一切興味がない不良だったわけです。
その代わり美術工作は良い悪いの評価は人によってまるで違う。
ザックリ作ったものが評価されて、ものすごく作り込んだものが評価されないなんてことはよくある。
小学生の頃からゲームプログラミングをしていたけど、それだって誰も評価できないから誰も点数をつけられない。
自己満足の極みなんですが。
だからこそ周りの批判なく、作り込むことができたわけです。
あとは限られた資本でどうやって作り込むか?
その創意工夫のほうが湯水のようにある予算より価値が高いことに気づいたのです。
今の技術で言えば、Nvidiaのグラフィックボードを買わずに、同等のフルポリゴングラフィックスを実現するみたいな。
「すげぇ」と思うこと。
でもコツコツやること。
そういうのが面白い。
「自分との闘い」とも言うのかもしれないけど、すすんでやっている辺りどうなんでしょうね。